2018.03.27

本気になるために

最近、強く思うことがあります。私たちは、どうして仏教を本気で学び、実践することができないのでしょうか。

昔ゲンギャウ先生に、「憎くてにくくて仕方ない相手がいるんですが、どうしたらいいですか」と質問した時、

「無常を考えなさい」

とアドヴァイスをいただきました。「いやいや、それはわかっているんですが、無理なんですよ」と心の中で反抗していましたが、今思い返すと、そのアドヴァイスは的確であったし、私自身が無常を全く理解しておらず、自分と遠い話と思って受け流していたんだとわかります。

「志の到らざることは、無常を思はざるに依なり」

というのは、道元禅師のお言葉ですが、本当に無常を理解しなければ、仏教を本気で実践することは難しいです。『菩提道次第略論』にも、

この有暇の所依は如意宝珠よりも殊勝である
このように得ていることはこのたび限りである

と、人に生まれることの難しさが説かれたうえで、

得難く壊れやすくまるで虚空の稲妻のようである
この状態に思いをよせ 全ての世間での活動
それらは籾殻をふるうかの如く虚しいと解する
昼夜を問わず 有効に活用しなくてはならない

と、この肉体が無常であることを理解し、修行に邁進すべきことが説かれています。そして、

瑜伽行者たる私も実践をこのようにした
解脱を求める汝もそうするとよいだろう

と、著者のジェ・ツォンカパご自身が、そのような覚悟をもって実践されたことが歌われます。

無常について、何度もなんどもお坊さんたちから聞いているはずなのに、なぜちゃん理解できないのでしょうか。彼らはいつも同じように答えます。

因果を理解していないからだ

因果の法を本当に理解したとき、山で乞食のような生活をしている修行者が本当は一番安楽の道をいき、世俗の者たちは苦しみの中で苦しみもがいていることが理解できるのでしょう。ですが、無常にしろ、因果にしろ、私たちにはなかなか理解できず、仏教のスタート地点で躓いてしまいます。

無常や因果を本当に理解するためには、智慧がなければなりません。でも、私たちは普段煩悩にまみれて、悪い行いばかりしています。そうすると無我や空性を理解することから、どんどんどんどん離れていってしまいます。どうしたらいいのだろうと考えたときに、ケンスル・リンポチェのお言葉に戻ってきました。

他の生き物を害すること、それをやめなくてはいけません。それはしてはならないことです。他の生き物に役立つことなら、何でもしなくちゃいけないのです。それを必ずしなくちゃいけません。ですので、みなさんそのことをいつも心がけるようにしてください

当たり前でありながら、リンポチェのこの言葉は、本当に重たいです。これは一朝一夕で出来るようなことではありません。毎日毎日地道に実践していくほかありません。しかし、長く険しい道でも、お坊さんたちが明かりを灯してくれているのです。それを頼りに、歩んで行くしかないですね。本気で仏教を実践するために。

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