「彼らが理解するかどうかは問題ではない。習気を置くことが重要だ」
ゲンロサンのおっしゃったこの言葉が、今でも心に強く残っています。
その日は、東京で一般向けの瞑想講座、のはずでした。しかし、仏教の基礎的なことを解説する段になって、ゲンロサンは助舌になり、中観思想にまで話が進みました。通訳をしておられた根本先生は、聞きに来られていた人たちが全く話についていけていないのを見て、「もう少し簡単な話にしていただけないでしょうか」とお願いされました。それに対して、ゲンロサンが、先の言葉を返されたのです。
チベットでは、こういう問題は起こりません。ダライ・ラマ法王の法話があれば、チベット人は老若男女等しく座布団とコップ、パンやお菓子を持って聞きに出かけます。仏教を専門に勉強している僧侶の人たちを除けば、ほとんどの人は法王の法話を理解していないでしょう。チベット語が理解できるできないではなく、説かれている内容が難しいからです。ですが、どうしてチベットの人たちが法話を聞きに行くのかというと、聞法すること自体が重要だと考えているからです。仏教では聞思修が説かれますが、まずは聞法しなければ始まりません。
仏教を学び理解することは非常に重要です。盲信ではいけないと、ダライ・ラマ法王は幾たびも説いておられます。しかし、「自分」を中心において、自分が理解できるかできないかで聞法するしないを決めることも問題ではないでしょうか。
ゲンロサンが法を説かれた時、もちろん聞いている人が今すぐ理解できるなどとは思っておられませんでした。ですが、今法を聞いたことが縁となり、いつかその人の中で芽吹くことを信じておられたのです。その時、ゲンが説かれた肝心の教えは何だったか、私自身よく覚えていません。でも、先の先生の言葉が、今も心に染み付いています。
法を聞く時、直接聞くのと、テレビやインターネットを通して聞くのとでは違いがあるのでしょうか。アボさんに尋ねてみると、
「目の前で聞くのと、インターネットなどを通して聞くのと、違いはないですよ。大切なのはその内容です」
とのお答えが返ってきました。龍蔵院の小さな自室で、アボさんが法王の説法を聞いておらる姿が目に浮かびます。自分が理解できないこと、法話に直接参加できないことを言い訳にしないで、聞法に励まなければなりませんね。