元The Beatlesのメンバーで、世界的にも有名なミュージシャンのポール・マッカートニーが「One Day a Week」というフィルムを公開して、週に一度でいいので、月曜日はビーガン料理を食べようというキャンペーン「MeetFreeMonday」を開始しはじめている。
このフィルムは来週からはじまる国連による気候変動に関する会議(COP 23)の開催に合わせて公開されたもので、肉食を「週に1日」でも私たちがやめることで、食用のための動物の消費が少なくなり、子孫のために地球環境を良い状態に保てるであろうという意識改革を訴えるものだ。
フィルムには、ポール・マッカートニーの実の娘のファッション・デザイナーであるステラ・マッカートニー、映画俳優のウディ・ハレルソン、昨年「ラ・ラ・ランド」でアカデミー賞主演女優賞を受賞したエマ・ストーンといったセレブリティが呼びかけている。
世界中の人が愛してやまないミュージシャンであるポール・マッカートニーのこの呼びかけは、精進料理の文化を有する私たち日本人にとって様々な示唆を与えてくれる。ポール・マッカートニーがビートルズ時代にインドにいって瞑想をしたり、いまも瞑想を続けていることは、よく知られている。またポールの愛妻であり乳がんでなくなったリンダ・マッカートニーの影響もあり、娘のステラ・マッカートニーのブランドでも革製品を販売しないとか、ヴィーガンレザー(合皮)を使った製品を発売したり、毎年ピンクリボンのキャンペーンを行ったりすることもよく知られている。
日本には古来精進料理の文化があったり、和菓子はもともと肉食の代用として進化したものであることなど、いまの日本では忘れられつつあることのひとつであり、最近ではポール・マッカートニーなど言っていることや、西海岸で普及している「マインドフルネス」などの本来はアジアを発信源とする文化が、逆輸入されつつあることも確かである。
チベット仏教でも基本的に肉食はできるだけ控えることが本来進められています。しかしながらチベットの気候や文化からも肉食はチベットの大きな文化のひとつであり、それを完全にやめることができないこともまた事実です。ただし、たとえば現在のインドに復興されたチベット仏教の僧院では、僧院が支給する食事はすべてベジタリアンであったり、釈尊の四大節に合わせてベジタリアンとなったり、また作タントラ、行タントラ、瑜伽タントラの行事のある際には、精進潔斎をしなくてはならないなどといったベジタリアンでなければならない時期もあったりする。
昨日リンポチェにポール・マッカートニーがこんなキャンペーンをしているのは素晴らしいことですが、どう思われますか、と伺ったところ、
チベットにも「ラカル」(ལྷ་དཀར་)というのがあります。
私たちもたとえば毎週水曜日は週に一度だけでもいいので仏教をまじめにやる日というのを作ることができるでしょう。たとえ毎日実践できなくても、毎週水曜日は朝起きたら礼拝・供養・懺悔などを行い、1日はきちんと五戒を守り、在家のまもるべき五戒、不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒を意識的に守り、その日1日はできるだけ、他者のためにいいことをして、他者を害するようにしないようにするといいと思います。
仕事から帰ってからは、仏典を読むなどをして心穏やかに静かに過ごし、そして1日の終わる寝る前には、1日を振り返り良いことをしたものを随喜し、悪いことをしたのものを反省し、そして1日の善業を廻向して終えることができます。
もちろんそれは毎日意識的にできればいいことですが、できなくてもまずは週に一回でもそういう日を自分で作るというのはとてもいいことだと思います。
とのお答えが帰ってきました。そこで「じゃあ、うちの会でも水曜日にはそういう日にしようというキャンペーンでもやって、もっと仏教をみんなが実践するように喚起してはどうでしょう。ウェブでキャンペーンやってみましょうか。」と申し上げると
そんな大それたことをする必要はないでしょう。そもそも仏法の実践というのは自分で意識しないとできないものですし、他人がそれを押し付ける必要はありません。それに私たちみたいな小物が言ったからといって、そんなに影響力はありませんよ。(笑)高い理想をもつのは大事なことですが、ぼちぼち地味に少しずつ仏教をみんなで学んでいくのがいいと思います。とにかく地味にひとつずつできることを小さいことからやるのがいいんですよ。
確かにおっしゃる通りである。チベットのラマたちはいつも「地味に少しずつ」というスタイルを貫くことが如何に重要なのかを説いているし、それを実践している。「地味に少しずつ」罪業をやめ、善業を積み、自らの心をコントロールする、これが仏教の核心であるとかつてケンスル・リンポチェも繰り返しおっしゃっていた。
仏たちやそれに仕える人たちのメッセージは、いつも変わらず同じ内容である。それらの素晴らしい教えをどこまで地味に実践できるのか、それは我々ひとりひとりの心がけ次第なのであろう。