リンポチェの法話会をレコーダーで聴き返して、
ディニ・ドゥンゲル・パッピー・デンバ・オー
これが苦しみという聖者の真実である
とするところを、様々に「これは苦という、聖なる真実である」と日本語に訳されていることの多くあることに気づいた。そこでアボたちにそもそも 「仏教に聖なる(Holy)」という考え方は有り得るのか、と質問してみると、
「聖地」とか「聖者」というのはあります。それは他のものよりも何か特別な特徴があるからです。たとえば聖地は特別な場所ですし、聖者は特別な人たちです。しかし真実にはそれにあたるような「聖なる真実」と「俗なる真実」があるわけではありません。四聖諦の場合の「聖」というのは「聖なるもの」ではなく、それらが聖者にとっては事実・真実である、ということを言っています。勝義諦・世俗隊というのがありますが、これらはひとつのものを聖者たちが見ている真実と世俗のものたちが見ている真実とが違っていることを意味していますが、真実そのものが聖なるかどうかという議論ではありませんよ。
という答えが返って来る。最も深遠な教えとされる空性でさえ、「聖なる」ものではない。全てのものに空性はあり、空性は俗なものにもあるから。
「ドゥンゲル・パッピー・デンバ・オー」とリンポチェがおっしゃる時の「パッピー」(聖の)というのは「パクペ(聖者)の」ということだ。
チベット語で仏説を聴いていると、様々なワードが簡略化され、なんとも膨大な情報量が、短時間に発せられることかと驚くことが多い。
時間がかかる通訳を僧侶は訝しがることがあるが、前提となる簡略化されたワードを知っているか否かで、その速度は明らかに落ち、時にノッキングを起こす。僧侶のギアで行ってこの急カーブを一般人はついてこれるのかと悩む一瞬が次々訪れ、仏典群の決まった場所の、決まった箱の中から正確なワードを取り出さねばならず、ギアチェンジが難しいのだ。
チベット人であれば、この簡略されたワードを使った法話に追いついていけるのかというと、決してそうではない。鍛え上げた脳内に、蓄積された仏教用語とともに簡略化された言い回しを含め、勝義諦であるか、世俗諦であるか、を瞬時に使い分ける必要がある。
正確に知るためにはチベット語につっかっかりながらも取っ組み合い、脳内に刻み込むほど格闘したあと、収めるべき場所に正しい理解で収めると、いつか理解できるようになるのが仏教のようである。
寂滅のなんと遠きこと。この酷暑の苦しみは果てしなく続く。ただ、幸いなるかな、ここに僧侶がいらして、院生時代から、僧侶に頭づき、長らく仏典と格闘し続けて青春を過ごしたかつての青年たちがいる。
定例法話会
8月の法話会は引き続き、四聖諦についてのクンケン・ジャムヤンシェーパの『現観荘厳論』の教科書の該当箇所の翻訳を準備し、それを解説していただきます。
四聖諦は仏教の教義のなかでもっとも基本的なもので、この四聖諦の教えを理解することは、仏教とは何かということを理解するために極めて重要なことです。四聖諦は誰でも知っていることのように思えますが、実は論理に基づき、それを解説していただき、それを理解するのならば、極めて明確な理解を得ることができます。
この貴重な機会に是非ご参列いただければと思います。
内容: 四聖諦とは何か:クンケン・ジャムヤンシェーパ『現観荘厳論第一章考究』
日時: 2017年8月27日(日)13:00-16:00
会場; 龍蔵院デプン・ゴマン学堂日本別院
講師: ゴペル・リンポチェ・ガワン・ニェンダー師
通訳・解説:根本裕史/野村正次郎
参加費;志納