リンポチェ来日前に、2013年のデプン・ゴマン学堂での様子を。この時にはゲンロサンがダライ・ラマ法王から重責を賜ることもその直後に、ご逝去されることにも思いは寄らず、リンポチェの来日がこれほど早まるとは思ってもいませんでした。ゲンロサンは重責を賜った後も、なんとか広島に行くよとおっしゃっていたのです。具体的な日取りもおっしゃっていたのに。
しかしながら法灯は消えずにありました。少しでも多くみなさまに、ゲンロサンに直接教えを受けたリンポチェの法話を聞く機会がありますように。
消える灯火、灯る炎
一月、二月のバンガロールの気候は、ほぼハワイのそれである。あまりの快適さに、車内のエアコンも止めてもらう。15年ぶりのインドの景色はすっかり様変わりしていて、綺麗に舗装された道路を行く。
インド人にしてはやや控え目なドライバーと三人、途中お昼を取ったり、楽しい旅だ。iPhoneのGPS機能さえあれば、半日遠回りしてぼったくられるということもなく、順調に道のりは進む。ドライバーも半ばを過ぎると、地元民に道を訊くより、iPhoneは何と言っているかと訊くようになっていた。
さすがのiPhoneさえも、衛星のカンを使うほどになると些か迷った。が、その頃には見慣れたえんじ色の法衣がチラチラとし始め、最後はゴマンに隣接するガンデンのクショラのバイク先導に助けられ、夜の9時にはゴマンに辿り着いた。
ゲシェラの居ないゴマンだと思うと、ペシミスティックになるが、懐かしいお顔が次々と出迎えて下さり、直ぐにゲストハウスは賑やかになる。
アボとラマの弟ゴペル・リンポチェ、そしてチベットに残っている弟、と三人並んでご挨拶。
「ようこそ」とおっしゃって下さっているのだが、心の中では「団子三兄弟だよ、そのまんまだよ、そろってるよお」と失礼ながら感動していた。
「そして、お母さん」と、大きな三つのお山が動いたその後ろに、ちょこんとお母さんが静かに現れた。あれ、お母さん思ったよりも小さい。
ご挨拶の後も、ちょっとだけ「へへへ」の顔で声を出さずに微笑んで。とても大人しい御方。
みなさんとのご挨拶もそこそこに、ゲシェラの家に向かう。
辿り着いてもゲシェラは居ない。主が旅立った家に入り、ゲシェラの最期の話を聞きながら、ゲシェラのお部屋で遺影にカタを捧げご挨拶をする。
お弟子のペマワンゲルによると、ゲシェラがお亡くなりになって暫くしたある夜、自分以外誰も居るはずの無いこの家で、階段を登ろうとする足音が聞こえ、あるはずがないと耳をすまして、何の音かと聞き分けようとしたことがあったらしい。
不自由になった身体を引きずって、「ペマワンゲル、ペマワンゲル、階段を上がって自分の部屋に行きたいから、いつものように手伝って」と言うゲシェラの声が聞こえたという。
何かに依存したり、執着したりしてはいけないと何度もゲシェラに教えて頂いてはいても、もうしばらくは共に寂しさを分かち合おうと、おしゃべりをしてゴマンの初日の夜は終った。
深夜ゲストハウスへ戻る道すがら、すっかり読経は止んでいた。夜の十一時を境いに読経は止み、朝の六時を境いにまた次第に大きくなる。
明らかに、勝手に買って出ている番犬に注目しようとするものなら、たちまちその静寂を打ち破って吠えられる。早速愚行を犯す。
女性蔑視の暴行が止まないインド圏とは別世界の、真綿にくるまれたような安心感に包まれながら、帰って来ることができたとしみじみしたり、シャワーを浴びて寝ようかと荷を解いたりしていると、アボが来て「明日は朝5:00に行きますよ」と言う。
今からだと、あんまり寝る時間が無い。お母さんを真似て、「へへへ」と笑ってみたが変な声が出てしまった。
そこからのゴマン滞在はぎっしりスケジュールが詰まっていた。ゲストのスケジュールがぎっしりなのだから、ホストの準備はほぼ徹夜になる。
私達の部屋の向かいが、アボとお母さんと(チベット在住の)弟が借りている部屋なのだが、ひっきりなしに人が出入りしている。早朝から深夜まで。いつも5、6人で作業をしている。カタを何千枚も切ったり、並べたり、封筒に判子を押したり。
朝昼晩の食事の時も、打ち合わせ。
食事はご一緒させてもらい、いつも10人くらい。ラマのためにみんなせっせと働くが、とても楽しそう。
ゴマンにいるアボは、日本にいる時とは全く違い、大きなの決定をする時以外は、口も手も出さず、腕組みして見守っている。(が、既に三日眠れていないと言う)
俯瞰して見ると、こうです。
ラマはとにかくぎっしりのスケジュールが詰まっていて、それに専念しています。
ラマのスケジュールに合わせて準備する指揮官は、直属のお弟子です。
この彼が肉体的に相当キツイと思われますが、おくびにも出しません。
回転が早く、要らないことは言わず、食事の時はジョークを飛ばし、全体の流れを澱みなく順調に運びます。
そして食事を一緒に取るメンバーが、その他のお手伝いの僧侶と作業を進めます。500人のパーティー会場を作った時は徹夜。何をやる時も脇をしっかり固めています。
毎日作業が続くのに、なんともみんな穏やか。準備する数も半端ないのに真心のこもったおもてなしに尽力しているので、相当の疲労とは思いますが。
そんな考えを廻らせている間もお母さんは、コルラ(右遶:うにょう)。パーティーが始まる前も、終わった後も、付かず離れずのその空間の片隅でマニを唱えていたり。唱えていることも気付かない程自然に。呼吸するのとなんら変わりなく。
アボ曰く「大人しすぎて、居るのか居ないのか分からん」と言うくらいひっそりと。大和撫子じゃなくて、チベット撫子。
ゴマン5日目。
ラマがタクセルを披露している間もお母さんはコルラ中。
途中、休憩に入るとゲンロサンがいらっしゃったので、ご挨拶。
ゲンロサン、お母さんに日本の良さを伝えようとするも、日本はねとっても清潔(ツァンマ)、日本はね道路も綺麗(ツァンマ)、日本はねお店も整頓されてる(ツァンマ)としか浮かばず。残念、日本プッシュ空振り。
お母さんはいつも通り「へへへ」。日本はツァンマしか無いって事が伝わっただろうか。
ゲンロサンが話題を変えて、「お母さんは凄いだろ。お母さんが篤い信仰心を持っているから、立派な息子が育つんだ。しかも三人とも僧侶だろ、しかも素晴らしい僧侶に今日なって居る。ね、お母さん」
多分伝わっていない。
お母さんフツーのお顔、「へへへ」さえも無く。とにかく大人しい。
タクセル再開の合図で、またコルラに戻るお母さん。
マニを唱えながら、お坊さまの周りをコルラ。
時々、ラマの白熱する一問一答に立ち止まって聞いているが、ちょっと「へへへ」として、またコルラ。
ゴマンに来て一年を迎えるお母さんは、境内僧侶の尊敬さえも集めている。
息子の忠告を聞いて、減らしに減らした、五体投地は一日700回(膝を痛めたので、それまでの2500回は反対された)、コルラ5~7周(一周約4km)のチベット生活と何ら変わらずゴマンで過ごしているお母さん。
喜怒哀楽の、喜の部分だけ(件の「へへへ」)がうっすら見えるか見えないか。
「怒哀楽」がない。
お母さんがコルラする背中を追いながら、ゲンロサンの声が甦る 。
「この母にしてこの子あり」
できる事なら「引っ張る引っ張られるお茶会」「菓子ばらき」「くるみ割りクショラ」と名付けた行事を日本で再演したい。大勢のクショラがとても楽しそうなのだ。しかし、やはりここでしか見られない。
そしてまた、いつも通りのゴマンの大勢の僧侶の中から、海を渡って来られるお坊様がある。ゴマンはまだまだ才能の宝庫だ。多くの人がゲシェラの頂きを目指している。「一切衆生のために解脱に至り、一切智を獲得する」という志だけに。
全く何をやっても、嫌な事があってさえも、自分の犯した業の結果だと考える。ならば仕方が無いさと豪快に笑う。そこで挫けては、チベット人の名折れなのだ。
もうあまりにこの価値観に慣れてしまって、帰ってからも滞在が短すぎたと後悔しきり。なんとも心地よい思い出が溢れてきて、みんなの言葉と行いを何度もなぞってみてしまう。
安住の地、ゴマン。ゲシェラのご遺体を灰にした木蔭のあるゴマン。ゲンギャウのお弟子が増え続けるゴマン。1600人の中にいてもゲンチャンパが浮かび上がるゴマン。夜が明ける前からゴザを被って広場で下ごしらえをする僧侶がいるゴマン、少しでも日本にあってほしいゴマンが今日もきっとゴロゴロしている。