このように仏教とは、心を非常に深く検証して、我執、真実把握を断じることが最終目的になります。我執、真実把握こそは、すべての煩悩の根であり、「痴」「 無明」とも呼ばれています。「痴」とは対象に暗く疎いことです。
一般に無知には二種類あります。すなわち、単なる無知と誤解との二つです。
まず単なる無知ですが、無知が原因で様々な問題が起こるということについては、すでに世界中の人々全員が理解していることでしょう。だからこそ、教育が必要になります。無知であれば、幸せを実現することができないだけではなく、苦しみを回避することもできなくなってしまいます。だからこそ私たちは、「学習する」ということが大切になるのです。
もうすこし深く考えると、無知のひとつである「誤解」。これは我々を混乱に陥らせます。誤解で混乱するのを避けて、我々は調査研究するのです。我々が様々に調査するのは問題の源となる。誤解を取り除くためです。そのために、調査や研究をするのです。その調査の結果、対象を正しく理解できるのです。調査や研究をし、対象の本質を正しく理解し、その研究や調査の対象がどんな対象であっても、それに対する誤解を除き、正しく理解するようになるのです。
たとえば料理をする時に、料理の仕方が分からないと美味しい料理を作る事はできませんよね。そうじゃなくて料理には、必ず塩や辛子が要ると誤解し、塩と辛子を入れ過ぎるならこれは誤解ですよね。これは単なる無知でなく、誤解によって問題を起こしているのです。その結果まずくしてしまいます。
あるお坊さんが居たそうです。ある日、 彼は弟子に食事を作らせたそうです。弟子はトゥクパを作ったそうです。トゥクパが出来て持ってきたところ、お坊さんはトゥクパを食べて言ったそうです。弟子のトゥクパは塩が効いてなかったようです。スープも少なめだったようです。先生は弟子に言ったそうです、「おいおいこれじゃ塩も足りないし、スープも全然足りないじゃないか」弟子は腹が立ったそうです。トゥクパを台所に持ち帰り、「どうだ塩だぞ」といって塩の固まりを投げ入れて、「ほら水を飲め」といって水をどっぷり入れたそうです。そこで先生のところに持っていったんですが、塩辛くて食べれたもんじゃなくなったとのことですよ。
このように怒りが誤解へと変わることがあります。このケースでは先生に腹が立ったことから、誤った認識起こっておこっています。本当に必要な塩加減が分からなくなってしまい、塩の入れ過ぎで食べ物自体ダメにしてしまったのです。まあこんな話もあったとのことですよ。君たちもそんなことしてるの?弟子に無茶苦茶言うとそんな目にあうよ。同様にどんなものであれ、それをよく調べてそのものを正しく知る認識で、そのものに対する単なる無知と、更には誤解を払拭する必要があるのです。
このように単なる無知も問題の発生源となりますが、この料理の例のように、辛子と塩を出来るだけ入れるというような「誤解」はもっと問題です。これは実現したい目的も実現できないくなってしまうでしょう。
そして誤解を払拭するためには、祈るだけではだめだというのは分かりますよね。塩や辛子を入れ過ぎた後で、どんなに「美味しくなりますように」と 祈っても無駄じゃないですか。ではどうしたらいいかと言えば、塩はこの位必要だ、辛子はこの位必要だ。その事を正しく知った上で誤解を払拭するべきなのです。これを正しく知ることで、まずいという苦を無くすのであり、美味しさは正しい料理法を知ることに懸かっているのです。
痴、無明というものをなくそうとすることも原理的にはこれと同じことになります。料理法についての無知であれば、正しく料理をするためには有害なものではありますが、大した問題ではありませんし、料理屋に行けばいい話です。しかし私たち自分自身の心にある無知は、貪りや瞋りが起こってくる源ですし、貪瞋の対象への誤解が原因で、様々な問題の発生源となるのです。ですから、自らの心にあるこの誤解一般と、すべての誤解の源である無明を除かなくてはならないのです。