私がした瞑想は、前行は3年で、本行は3年3ヶ月かありました。
「どんな境地に達した成就した」というような大それたことは言えません。
ただひとつ言えるのは、むかしは慈悲とか空とか菩提心というものを瞑想したいたときにも、それらが自分とは非常にかけ離れているものにしか思えませんでした。しかし、いまは怖畏金剛にしても文殊菩薩にしてもすぐ近くの存在へとなりました。これが私の瞑想の成果であることは確かです。
そもそも瞑想とか修習とか観想というものは、何度も繰り返して自分の心をある状態にもっていく練習にほかなりません。誰しもがすぐにある境地に突然達するわけではないのです。普通の人に比べてすぐに神通力などをもつ人は、前世で瞑想を沢山したからなのです。
たとえばいつも毎食同じ味のカレーを食べていると、そのうちそのカレーの匂いや色を見たり嗅いだりするだけで、そのカレーを食べたのと同じ経験がよみがえってきます。そのうちに、見たり食べたりしなくてもそのカレーがどんなものか、わかり、忘れないようになるのです。
それと同じように、すべての生き物を苦しみから逃れさせたいという慈悲の心も、最初は非常に縁遠いものではありますが、何度も何度も自分の心を慈悲の心へと持っていく練習を積めば、わざわざ自分で慈悲心を起こそうと思わなくても、自分の心は作為的ではない本当の慈悲の心そのものになっていくのです。これが瞑想や修習というものがもたらすものでして、それを目指して瞑想や修習というものをするべきなのです。
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