聖観自在を礼拝する
無数の勝者たちの智慧と慈悲が
如何なる所化にもそれ応じた方便で現れる
アヴァローキタと呼ばれる旗印を持つ
三界の衆生の唯一の友であるあなたを礼拝せん
ここで顕密の教説の意味を
今生と臨死と中有の実践として
善くまとめられ説かれた最勝なる教誡の
分かりやすい言葉のこの連綿が増えんことを
聖観自在の教誡たる、成就自在者ミトラジョーキ(Mitrajoki / Mitrayogin, 12c.)がトプ・ロツァーワ・チャンパ・パル(Khro pu lo tsa’a ba Byams pa dpal 1173-1225)に法士として授け給われた「三義心髄」(snying po don gsum)と呼ばれるこの教えに関して、至尊ミトラの伝記、教誡の偉大性、前行法などは、これまでのラマたちの指南書に詳しいので、それらより知るべきだが、ここでは本行の観相次第を極めて判り易い言葉で説明しよう。これには二つ。すなわち、A1 本偈の引用提示、A2 その義の実践法である。
A1 本偈の引用提示
本偈ではこうある。
今世では継続し本尊を修習する
臨死では転移の訣を修習する
中有では混合を修習する
継続した修習がすべての要である
一行目で今生、二行目で臨死、三行目で中有、四行目はすべてと結合すべきである。
また転移・混交は臨死・中有〔を迎えたその時に〕に必要な行であるが、その際に思い通りに行うことが可能とするには、いまこの時から各自実践しておかねばならない。この実践法もまた、ある日は過度にし過ぎ、ある日は過度にしなさ過ぎる、というのではなく、川の水が流れるように継続的に実践せねばならない。このことが意味されている。
A2 その義の実践法
A2には四つ。B1今生の実践たる継続的本尊行法・B2臨死の行たる転移の解説・B3中有の行たる混合の解説・B4 補足として見修行の要点の説示。
B1 今生の実践たる継続的本尊行法
本偈にはこうある。
無常・苦を想起するのである
大悲を完全に起こすのである
頭頂には師を 心臓部に本尊を
自心は不生を修習すべきである
ここで意味される行には四つある。C1縁分たる増長の教え、C2本分たる菩提心修習の教え・C3方便たる師本尊に対する請願の教え・C4本体たる自心不生の修習の教え。
C1 縁分たる増長の教え
C1について一行目で〔「無常・苦をを想起するのである」と〕示される。
これも「無常」「を想起する」「苦」を「想起する」と〔文章を〕連節し、前者で、今生に対する期待を退ける因として、死期は不確定であるという死の無常の修習が説かれており、後者で一切の輪廻は苦を自性とすると知ることで、一切の輪廻の円満への期待を退け、輪廻から解脱したい、という不作為の意識を起こすための方便が説かれている。
この二つを代表とする下士共道次第修心次第と中士共道次第修身次第でのすべての観処をこの段階で実践すべきものである。ここでそれらを挙げると多くなる恐れがあるので、〔それらの詳細は〕勝者〔ジェ・ツォンカパ・〕ロサンタクペーペルが著された菩提道次第それ自体から理解するとよい。
C2 本分たる菩提心修習に関する教え
〔本頌では〕
大悲を完全に起こすのである
と説かれている。
自らが輪廻から解脱することだけ追求するのではなく、一切有情の利楽を成就せねばならない、という責務を自身の心に固くて起こす。そしてそのために最勝菩提へと発心し、勝子行を学ぼうとする強い心を修習する。これも因果七訣による菩提心の修心・自他等換による菩提心の修心という二つがあるが、これも『菩提道次第』や『大乗修心口訣』などから理解するとよい。
C3 方便としての師本尊への請願に関する教え
これに関してまた、自身が最勝菩提に発心し、二資糧を究竟し仏位を成就した後、一切有情を輪廻から解脱させるのは当然だが、いま現在の自分にはその能力はないので、輪廻と悪趣のこの耐え難い苦から一切の衆生をいますぐ救済する帰依処が必要なのであり、それもままた聖観自在および賢劫千仏に請願する必要がある、と考える。
〔そして次のように思う。〕自らの頭頂に水晶の無垢な仏塔がある。それには千の門があり、外から見れば、内部から光を放っており、光明を本質としている。この内部には蓮華座と月輪があり、その上に、本体としては〔現在のいまの〕恩師・根本師であるが、相としては至尊聖観自在菩薩が居らっしゃる。御身は雪山の如く白く、一面四臂にして、第一臂・第二臂は合掌し、右下臂は摩尼水晶の数珠を持しており、左下臂は白蓮華を持している。御足は結跏趺坐にて座しており、宝石や様々な緞子で飾られた御衣をお召し給われる。相好で荘厳されているその御身が、顕れているが無自性であるのは、天空の虹のようであり、光明の大きな集塊の中に座して居られるのである。このように修習する。
千の門には賢劫千仏、しかも東方には御尊身は白色たる大日如来、南方には御尊身は黄色たる宝生如来、西方には御尊身は赤色たる無辺光如来、北方には御尊身は緑色たる不空成就如来だけがおられる観じる。以上が頭頂に師を修習する作法である。
ある指南書ではカサルパニ観音の修習を書いているが、意味上は違いはなく、現在六字念誦の時、四臂念住を修習する者が多いので、このように〔四臂観音で〕記しておいた。
心臓部に本尊を修習する作法は以下の通りである。
まず自分の心臓部に、紅い蓮華があり、千枚の花弁が咲き開いていると修習する。その中心の月輪の上に、自分の心と無区別な本尊大悲観音がいらっしゃる。それは頭頂に修習するものと全く同じく、光明を本性とし、無垢なる白い阿字を修習し、観音の御胸元の月輪の上に白いキリーク字とその端で回っている、六字真言輪とを善く修習する。その後に、頭頂の師・観音及び賢劫千仏を所縁とする強烈な信心が生じ、眼からは涙がこぼれ、身体の毛穴が動き、強い悲痛一心となる。そのことによって、「師本尊大悲者よ、私の父母たる六種の有情たちは、輪廻という苦海に縛られており、護り主がを持たない。救いを持たず、悶え苦しんでいる。この者どもを、輪廻の苦しみというこの大海より救い給え、速やかに救い給え、この場で救い給え。」と強烈に請願することで、頭頂の観音の御身より光が放たれ、心臓部の観音を照射し、賢劫千仏の御身よりも光が放たれ、心臓部の千の阿字を照射する。
それにより心臓部の観音及び千の阿字から、本性はそれらの不二の智慧であるが、形相は白い甘露たる者の無量の流れが流出し降り注ぐことで、身体の内側のすべてが〔甘露によって〕満ち溢れる。〔身口意の〕三門の罪障及びその習気のすべては、煤・炭・蠍の形相で、身体の毛穴及び全ての根門より黒い膿として外に排出され、瑕疵なき水晶の如く、はっきりと相好を具足した観音の身体と成る。
この甘露の流れ自体はまた、毛穴や根門から外に溢れ出て、はじめに地獄世間へ至り、地獄のすべての場に充ち溢れて、地獄の者たちは、灼熱・寒冷といった苦とそれらの因たる一切の業と煩悩が根本から浄化され清浄なものとなる。そして彼らの器世間たる、燃え上がる鉄の大地、燃え盛る家宅、凍える暗黒の耐えがたい狭い独房、これらすべての器世間は忽ちに無くなり、極楽浄土の如く、宝石を本性とし、広大なものとなり、それに触れるとなめらかであり、楽のみのものと成る。そこに住む一切有情も聖観自在の御尊身、すなわち顕現しているが無自性な虚空の虹のようなものだけの者たちとなった、と修習するのである。
これと同じようにこの同じ甘露の流れは、順に、餓鬼・畜生・修羅・人・欲天・色天・無色天といったすべての場にも至る。そして順に、餓鬼たちは飢えと渇きの苦しみ・畜生たちはお互いに食べ合い、蒙昧で話ができないなどといった苦しみ・修羅は争いの苦しみ、人は、生老病死の苦しみ・欲天は死後の転生で下落する苦しみ・色天、無色天の遍行する苦しみ、そしてそれらの因たる一切の業と煩悩は浄化され、清浄となり、それらが位置する一切の器世間は、極楽浄土の如きもののみとなり、そこに住む一切衆生も聖観自在身以外には居なくなった、と修習する。
この〔頭頂・心臓部における観想の〕後、六字真言を念誦したければ、聖者として顕現している自分の口より、摩尼の音声が発現する。観音たる一切有情たちの口からも、摩尼の音声が見える限りのものが揺さぶられるように、すべての者たちが発声している、と信解する。そして可能な限り〔六字真言を〕念誦する。
最後に座を措く時、自己の心臓部の本尊の胸元のキリーク字から光が発し、極楽の如く顕現した一切器世間を照射し、それらはまた光の中にすべて溶解し、観音として顕現しているそこに住む衆生へと溶解する。それもまた光にすべて溶け込んで、それが自己へと溶解する。頭頂の観音は光に溶解し、〔それはさらに〕心臓部の観音へと溶解し、賢劫千仏の千阿字へと溶解し、〔頭頂に観じている〕仏塔は天空で虹が消えるが如く消滅する。観音として顕現した自己もまた、心臓部の阿字を有する蓮花の花弁へ、更にその中心の観音へ、更に胸元の真言輪と蓮華座へ、更に胸元のキリーク字へと溶解する。最後にそれ自体はまた認識できないと思い、〔空性に対する〕見に三昧することとなる。
C4本体たる自心不生の修習の教え
C4の本体たる自心不生の修習の教えには、人無我の修法・法無我の修法との二つがあるが、ここで簡潔に述べておきたい。
はじめに、私たちの心相続には〝私である〟と捉える強烈な意識が自然発生している。したがって、この意識にどのように〝私〟が顕現しているのかを考える時、自らの五蘊の上に〝私〟と仮説されただけのものであったり、顕現しているだけのものではない、五蘊の上に、その意識が対象としているはずである、何らかの〝私〟というものがはじめから成立して有るかのように顕れているのである。これはちょうど、〝天井を支える用途を果たし得るもの〟を見ている時、そこに〝柱〟であると思う意識は自然に発生しており、その意識に柱が〝顕現している通りである〟と考える時、その木材の上に、この意識によって〝柱〟であると仮設されているだけでのものではない、この木材そのものの上に、〝柱〟として成立しているかのように顕れているのと同様なのである。
そのように成立しているかの如く顕れているにも関わらず、五蘊という対象の上には〝私〟というべきものがきちんと成立していることなどは決して無い。たとえば、〝柱〟も、天井を支える木材に対して、分別によって命名されているもの以外に、この木材の対象の上には、〝柱〟として存在しているものは全く無いからである。自らがそれを〝柱〟であるとする言説を為さない限りにおいて、〝柱〟であるという意識が起こったり〝柱〟という言説を為すことは無いので、〝柱〟としては成立していないが、その後に、その上に「柱」と命名して以降、それを見ることを「柱を見る」などという言説が起こることになる。
それ故に〝柱〟とはその木材の上に命名されただけのものに過ぎないのであって、それの側から〝柱〟として成立するべきものなど少しも無い。同様に、母親から生まれたばかりにある子供に「タシー」などと命名した時、その子を見ると「これはタシーだ」と思う。これもその子供の側から「タシー」として成立しているもののように現れてはいるけれども、その子供の方から「タシー」として成立しているわけではないのである。何故ならば、もし成立しているのならば、そのような命名をする以前にその子を見たときに「これはタシーである」と思う意識が生じ得るはずである。しかしながら、そのようなものが生じることなどは無いからである。したがって「タシー」というのももた、その子に対して、意識によって命名しただけのものとしては成立しているが、これらの比喩で表現さる〝私〟・〝蘊〟などの一切の諸法も各々の仮設基体上に仮設主体たる分別によってそちら側へ仮設されているに過ぎないものなのであって、対象それ自体に基づいて成立しているものは何も無い。このように常に確定する三昧を修習し、後得においても、顕れている対象は顕れているそのすべてのものが顕現してはいるけれども、顕現しているその通りにそれ自身の側から成立しているもに関して空である、幻の如きものが顕れていることを学ぶのである。ここでは見の修法を短く分かりやすく説明したに過ぎないが、詳しくは〔この文章の〕ほかに見を指南する文書があるので、それより理解するとよいだろう。
B2 臨死の行たる転移の解説
B2臨死の行たる転移の解説については偈頌に
自らの体を供施することで
すべての期待を完全に断じる
光明の管を結合させて
心を兜率処へと投じる
と説かれる。この意味を実践するために、 C1 転移成就の逆縁排除・C2順縁の成就 C3転移観そのものという三つがある。
C1 転移成就の逆縁排除
今世の処・身体・享受物を貪着していれば、鳥が空を飛ぶ時に翼に石を付けられている如く、いくら兜率天等に転移したいと思っても、思い通りに転移するためには、その逆縁となるので、その対治として、身体に対する貪着を滅するため、まずは幻身を善資として供養することが一行目で説かれている。
資糧の福田の顕在化として、眼前の空間に八獅子で支えられた広大な玉座の上にある、蓮華と月輪の座の上に、至尊観世音の形相をした、恩ある根本師を先程修習したのと同様に居らっしゃると修習する。
その頭の前方には根本次第相承の師資たち、上半身の前方には四部タントラと関連する本尊と各曼荼羅の諸尊たる一切の仏と菩薩たち、下半身の前方には、恩ある父母を先頭に六種の一切の有情たちが隙間なく居ると信解する。つまりこれらの客人たちが大地と空間のそのすべてを胡麻粒で充満しているように観想する。
次に、資糧の積集作法として次のように思う。
幾度となく私はこの輪廻で有情一般の身体を無数に得てきた。特にこの人身も無数に得てきたのである。しかし、そのすべては意味もなく浪費してしまったのに過ぎないのであり、意味のある活用をしたことなど一度たりともこれまでなかったのである。この度のこの古びた身体を得てからも、清浄な利法の一つも成せたことなど無かったのである。この身を維持するための手段として様々な罪業を為してきてしまった。いま死に行くこの身は、誰もいない放牧地のように後に残されるだけであり、これのために積んできたこれらの罪業で来世は悪趣の耐え難き苦しみが起こることになるのである。それ故に、この身体は執着すべきものでは無く、これに依拠して広大な資糧を簡単に成し遂げなければならない。そしてそれもまた本尊大悲観音に請願しなくてはならない。以上のように思うのである。
自らの心性は、心臓部で親指大に凝縮した観音の尊身より、外側に分離して出ていき、眼前の空間に住することで、過去の古い蘊を振り返れば、白く、栄養価に満ち、美しく、心地よく、艶よく輝いているものとして存在していると思う。眼前の観音の形相をした師に対し、「師、本尊観音よ、私のこの身体に依拠し広大な資糧を簡単に成し遂げさせ給え」そう請願するのである。
すると彼の御口から「オーム・アーハ・フーム」と説かれ、それによって須弥山ほどの人の頭蓋骨の鼎が現れ、その後に本尊の胸元よりカルティカを持つダーキニーたちが出現し、それが自分の眉間の上の頭蓋骨をカルティカで真っ二つに割り裂いて血飛沫で覆われ三千大千世界よりも広大であると思う。更にカルティカを持つダーキニーたちが多く出現し、古い身体の肉・血・骨を順に刻んで髑髏杯へと入れ、髑髏杯は血と肉で満杯となるのである。
もう一度本尊の口から「オーム・アーハ・フーム」と説かれることで、このすべての血と肉は、日昇直後の太陽の色のように橙色をした無漏の智慧の甘露と成り、善い香りを嗅ぐことで勝者と勝子たちの御心もまた楽によって満たされ、六道の苦しみを取り除くことができる者と成るのである。このように信解する。
その次に、自らの心臓部よりカルティカを持つダーキニーが天界を満たすほど出現し、彼女たちが手にする髑髏杯で、甘露が尽きることを知らないかのように掬いあげて、根本師資相承の師・本尊・仏・菩薩・声聞・独覚・空行母・護法尊たちに甘露を献上し、彼らの御心は、無漏の大楽で満たされて歓喜なされるということで、資糧を簡単に成し遂げた、と思う。
同様に危害を与えたことの報復をしようとする復讐者たちにも与えることで、彼らの復讐心はなくなり、貸借は清算され、恨みは晴れ、彼らすべてもまた観音となる。
その後に恩ある父母を先頭とする六道の一切有情に与えることで、そのすべてもまた、六道それぞれの苦とその因たる一切の業と煩悩が浄化され清浄なものとなり、先ほどと同じように器世間のすべては極楽浄土の如きものだけになり、そこに住する一切有情もまた観音と成るのである。このように観想し、六字念誦等も先ほどと同様にすべきである。
最後には、器〔世間の〕一切は光に溶解し、そこに住む有情たちも自己に溶解し、眼前の空間に居られる根本師・相承の師をはじめ空行母や護法尊にいたるまでの眷属たちも自己を加持という形で自己に溶解する。最後に、自己はまた認識できないもの(無所縁)であると思い、供養対象・供物・供養を行う人・供養の作法などすべては、本性によって成立しているものが微塵ほどもない、空性であると観想し、三輪無縁の証解を智慧で発展させる。
このようにすることで身体に対する貪着と離れるのであるが、更に親しき友や金品、財産などのと離れてはいないと思われるのならば、それらを滅する方法が二行目で〔「すべての期待を完全に」と〕説かれているのである。これもまた、今世の親戚や友人などが幾ら多くとも、前世の業によって、木の葉が風で落とされるように一時的に集っているに過ぎず、最期を迎える時には、彼らもまた私を捨て、私もまた彼らを捨て、死にゆく時には、親しき親族や友人は一人としてそれ(死)を共にする権限に値する者などいないし、自分一人だけで逝かなれければならない。
このように思い、彼らに対して執着しないようにするべきである。金品・財産などもまた死にゆく時に遺していかなければならず、私自身はバターの中から毛を抜き取るように逝かなれければならない、というこの状態を理解することで、執着することなく、三宝に供養したり、僧衆たちに奉納するといった、有効活用となる善なる方面へ与えてしまい、いかなる執着であってもそれは無くすべきなのである。
C2 順縁の成就
転移を成就するための順縁として、兜率天に生まれようという強い意志を修し、そこに生まれた位という祈願を立てる。諸々の善根もその因へと廻向する。
C3 転移観そのもの
C3転移観そのものは後半二行で〔「光明の管を結合させて、心を兜率処へと投じる」と〕説かれる。
「兜率内院法宮」と呼ばれる宝石の輪で取り囲まれたものの中心に「高宮」「勝幢高宮」と呼ばれる至尊弥勒が居られる宝石の完全な宮殿はある。その前に「妙楽持法」と呼ばれる至尊〔弥勒〕が説法される法苑がある。それは宝石を自性として、広大にして、歓喜を尽くしている。その中心の獅子の善法の玉座の上に、勝者アジタ〔弥勒〕御自身が居らっしゃる。その御身は黄金の胎児の如く金色に輝き、十万の太陽に比する光明を有している。各自の閻浮提の側に御顔を向けて居られ、眷属たる無数の菩薩たちに般若波羅蜜多の規矩や教義を妙暢に教示なさって居らっしゃる。これを私も現量として見ていると信解し、一心に強く思慕し「大悲勝者アジタよ、私を輪廻と悪趣の畏れから救い、兜率国土へと直ちに引導し給え、速やかに引導し給え、この場で引導し給え」こう請願するのである。
それにより至尊〔弥勒〕の胸元より光明の管が袖を伸ばしたように細く出現し、自己の頭頂の梵座は天窓を開けたように喇叭状に開き、自己の心臓部にある親指大に凝縮した観音尊身によって自己の天窓を開けたような梵座から光管の道で、見上げると、至尊の胸元が、よく磨かれた黄金のマンダラに日光が当たっているように金色に光り輝いて現量で見えていると信解する。ここでその光の管を道であると想い、自分自身がその道を往くと想い、至尊の胸元に至り転移すると想う、と言う三つの想いを為し、再度強い意思で先程同様に請願する。
このことにより、至尊〔弥勒〕の胸元から鈎状の光は、光の管を往来しながら出現する。自分の梵座を通じて入ってきて、観音菩薩として顕現している自己の心性を照射する。そのことにより、鈎で引き上げられるように、〔自己の心性は〕上方へと向き、梵座から外へと出て、光の管の道を通って、流星が降り注ぐように何にも妨げられずに上昇し、至尊〔弥勒〕の胸元に溶解して消滅する。このことによって至尊〔弥勒〕の御心と自分の心とが一味に溶解したと思い。そのままの心持ちで暫し置く。
そこから再び、心臓部より出て、至尊〔弥勒〕の説法法苑で、千の花弁を有する蓮華の中心に、分析力と智慧が最勝なる天子にして、大乗の法を恣欲に享受する劫を持つ者として生を受け、至尊〔弥勒〕の御言葉の甘露を開くことなく飲むことができると信解するのである。
B3 中有の行たる混合の解説
中有の修行の心髄である混合とは本頌で
これ自体は中有であると知り
外・内・秘に変化を起こし
空性と悲の修習をすることで
賢者は結生するべきである
と説かれている。一行目では中有においてそれが中有であると認知する方法を示しているが、その次第は、現在のこのすべての対象顕現に対して、これら一切は中有の迷乱顕現であるので、中有にてそれが中有であることを認知せねばならない、と何度も修習することで、これから先、中有に生まれた時、「いま私は中有に生まれている、このすべての現れは中有の現れとして有る」と中有を中有であると認知できるようになるのであり、夢を見ている時も、昼間の記憶を継続させて見ているのと同様なのである。
二行目は中有の実践そのものを説いている。外的変化とは、これから外側の器世間たる大地や石や樹木などを本質とするこれらのものが現れる時、これらは私自身が中有にいる迷乱の顕現なのであって、事実としてはこのように成立しているものは無い、と思い、それらの不浄なる顕現に意識が付き従うことなく、それらは清浄なる極楽浄土のようなものだけへと変化させる、と修習する。同様に内的変化とは、内側の住世間たる人・畜生などの様々な者が顕現している時、それらは観音菩薩の本尊の身体へと変化させる、と修習するのである。秘密変化とは、そのような器世間・住世間の両者がまたそれ自体で成立しているかのように顕現している時に、このような顕現は、自分の心が真実把握とその習気によって汚染されていることによって、そのように顕現しているだけであり、それ以外に顕現している通りにそれ自体で成立しているものは微塵ほども無い、と修習するのである。このような修習をなすことによって、中有に生まれている時に、地獄処・閻魔世界などの不浄な器の顕現が起こっている時、それらは極楽浄土のような者であり、剣を持った殺戮者などに自分が殺され等の住世間の諸々の顕現する者は観音の御身であり、そのすべてはまた顕現している通りに本性によって成立している者について空であると心に思い描くことができるようになるのである。
後半二行は思い通りに有に生を受ける受け方が示されている。それは次のようなことである。自分は法を成就する有暇具足を全うする清浄なる身体に生を受ける時、自分が中有に住して、父母が交合するのが見える時、雄に生まれることになる場合には、父を対象とする瞋恚、母を対象とする貪欲の心が起こっている時に、瞋りが生じる対象であるその父は、無始以来いかに恩の有る者であるのかということを考えて、それらを対象とする強力な悲心を修習し、その瞋恚を退けるのであり、貪欲の対象であるその母が顕現しているけれども、それは顕現している通りに、それ自身の側から成立しているものについては空であると修習して、その貪欲を退ける。その後で私はこの母の胎内に生を受け、残りの道を実践し、有情の利益を広大に成就したいという動機をもち生を受けるのである。
B4 補足的な見・修・行の要点の説示
補足として、見・修・行の要点の提示は、
如何なる現れであれ認知することが見解の要点である
そこから揺らぐことがないことが修習の要点である
思い起こして等しく集中することが行の要点である
これこそが偉大なる悉地を得た者の教誡なのである
と説かれている。
如何なる現れであり、それ自身の側から成立しているかのように現れているこれを認知する時に顕現している通りに成立していないと確定することが見解の要点であり、確定したその意味を一心に揺らぐことなく修習することが修習の要点なのであり、輪廻・涅槃の一切法が本性空であると一味に想起する気持ちから利他のために勝子行を学ぶことが行の要点である、ということが意味されおり、「偉大なる悉地を得た者の教誡」とは以上説明したことが至尊ミトラの教誡であると示しており、このシュローカは至尊ミトラのものではないのは明らかである。
以上、『三義心髄』と呼ばれる諸々の実践次第を極めてわかりやすく実践しやすく説明し終えた。
白蓮を持つ心の湖より
善く出てきた甚深道という真珠
それが連なり編まれて提示したこれは
賢劫の吉祥女たちの首飾りである
ここに励むことで起こる純白の祥善により
一切衆生が悪趣の崖より救われんことを
兜率の摩尼殿が歓喜に満ち溢れ
勝乗という甘露の栄華を享受せんことを
以上のこの三義心髄の分かりやすい指南書は、教法と教法を護持する者に不断の最勝なる信心を有しており、施しの長い手を差し伸べ、貧しき衆生たちを息吹かせていらっしゃる生類の偉大なる女王たるパルデン・イェーシェー・チュードゥンの甚深なる御心を発展させるために、法を語る僧たるゲンドゥン・ギャツォ様がウルカ・タクツェルの宮殿にて著したものであり、筆記者はサンゲー・ゴンポと名乗る者が為した。