「四諦」とは何かというと、「苦諦」・「集諦」・「滅諦」・「道諦」の四つがあります。「諦」「真実」とはそのものが事実として如何にあるのかということを表しています。
我々命ある者は、想像力や感受性のある生き物はすべて苦を望まず楽を望んでいることは同じです。だからこそ最初に「苦しみが事実としてある」ということを説かれています。
苦しみを望んでいないからこそ、そのような苦しみを受けないために何をしたらよいのかというと、単に「苦しみがやってきませんように」と祈るだけで苦しみを味合わなくなるというものではありません。それと同じように苦しみから逃れたらいいなという思いそれを願うだけで苦しみから逃れたり、解放されることはありません。何故ならば、苦しみというのは原因によって起こっているものだからです。ですから、原因が整っていないのに、結果として苦しみがなくなるということは有り得ないのです。ですからその結果である苦しみというものを望まないその限りにおいて、そのような苦という結果をもたらす原因が何であるのかということを知る必要があるということになるのです。結果が起こらないために原因を取り除いて無くすことを考えているからこそ、その原因がどこにあるのかということを知る必要があるのです。このような理由から「苦諦」・「集諦」の二つが説かれてます。
楽というのは我々すべての者が求めているものです。楽、幸せ、こういったものについては決して変わってしまわないものを望んでいます。もしも変化しない永遠の楽や幸せがもたらされるのならば、それが真の楽や幸せと呼ばれるものでしょう。我々が通常もっているような快感や幸福感(楽受)というものは、ある時は快楽をもたらすことがあっても、また別の時にはそれが苦しみをもたらしてしまうことがあるものです。時には、快楽そのものが苦しみに変化する場合もあります。このようなものは信頼に足りるものではありません。本当に信頼できるような楽というのは、苦しみというものとは全く別なものになっており、永遠と変化しない楽、そのような「常楽」をこそ我々が望んでいる幸せにほかなりません。
このようなわけ、我々が実現すべき楽のことは、釈尊は「楽」とか「幸福」というように説かれるのではなく、望んでいない苦しみおよびその原因が無くなった状態、そこから離れた状態のことを指して説かれております。そしてそこから離れるためには、対治となるものを起こすという形でそれらの原因を無くすので、「それを滅している真実」「滅諦」というものを説かれているのです。「滅諦」というのは、私たちが求めている対象である「永遠の幸せ」のことを表しています。「永遠の幸せ」というのは対抗手段を発動させていることの力によって、苦しみの原因から離れているのであり、苦しみの原因から離れていることによって、結果である苦しみからも解放されているのです。これが「常楽」にほかなりませんし、これが実現すべきものです。それが実現されるために、それを実現させる原因となるもの、方法というものが必要になります。これが「道諦」ということになります。
このように我々には事実、真実として望んでいない苦しみがあり、それはどのようなものであり、その原因となっているものは如何なるものなのであり、それに対して実現しようと思っている永遠の楽とは如何なるものであり、その原因には何があるのか、これが先ず最初に説かれたのです。
これが苦であるという聖者の真実である。
これが集であるという聖者の真実である。
これが滅であるという聖者の真実である。
これが道であるという聖者の真実である。
これらはこのようなことを説かれているのです。
苦諦とは何か
まず苦諦についてですが、まず苦しいという感情は特に説明しなくてもいいくらいでしょう。釈尊が説かれなくても、小さな虫さえもこの苦しいという感情のことは分かるでしょう。ですから釈尊がそれをわざわざ説かれたというのではないのです。
ですから、「これが苦であるという聖者の真実である」という場合の「苦しみ」はどんなことを意図されて説かれたのかということを考える必要があります。まず「苦しみ」というのには、「苦苦」・「壊苦」・「行苦」と三つありますが、このうち苦苦については小さな虫でも分かるものです。
「壊苦」とは通常我々が楽であると感受しているものを指しています。たとえば身体的快楽や精神的快楽がこれにあたります。これらは通常我々は快楽であると感受しているものを指しています。我々が通常快楽であると思っているもののその大部分は、苦痛が表面的に停止し、その代わりに楽であるかの如く感じているものにほかなりません。たとえば凍えている時に太陽の下に行くのならば、快感を味わい、心地よいと感じるでしょう。広島の町中で太陽の下にいたら本当に心地よいでしょう。
しかしどうでしょう。この太陽の温かさによる快感を細かく分析してみるとどうでしょうか。この快感の前には、冷えたという苦痛の感覚があります。その苦痛が小さく小さくなったその代わりにやってきたものが、この快感を味わわせているだけなのであって、これは永続する快感ではありません。それが永続ていないことの証拠はどこにあるかというと、ずっと太陽の下に日が沈むまでいたとしたら、その熱射病になったり、暑くて涼しさを求めたりするでしょう。これは太陽の下にいて楽受を得たその楽が変わることのない楽であれば、太陽の下にいればいるだけそれだけ楽の感受を得て楽は継続して増加し続けるはずでしょう。この逆の場合には苦しみを味わう原因が多ければ多い程、味わう苦しみも多くなります。しかしこの場合の楽の感受というのはそのようではありません。
このように楽の感受の大部分が、苦しみが少なくなったのをあたかも楽であるかのように感受しているだけであって、永遠なる楽ではありません。たとえば飲食に基づく快楽を覚えるこ とについても、飲食を過度にしてしまうのならば、健康を害して苦しみを味わうことになってしまうわけです。このように「壊苦」というのは楽受であることは確かで、我々はそれを快感であると捉えています。しかし、これは変化してしまうものであり、最終的にまた苦しみをもたらしてしまうものであるということからこれは苦しみであるというのが事実なのであり、このことを壊苦と呼んでいるのです。
次に行苦というのものが説かれていますが、この行苦というのは壊苦の源泉でもあります。行苦は無記の受より生じるということもできます。行苦に基づいているもの、これを壊苦と呼んでいます。
有漏の受の苦とも謂われます。漏は煩悩のことを指しますが、煩悩を伴っているもの、つまり有漏のもの、業や煩悩を伴っている、楽受、ここで楽受がこの壊苦であり、有漏の楽受です。無記の受というのはそのようなものが起こるための縁となっていますが、 そのように業と煩悩に支配されたもののことを行苦というのです。業と煩悩に支配されたものであるのならば、外界のものであれ、内側の蘊であれ、業と煩悩に支配され、それによって生じたものであり、それに対応しているもの、それは行苦であると説かれています。
このように苦というものはいろいろと考えなければ分からないものであるからこそ、釈尊はこれが苦しんでいるという真実であると説かれているのです。
集諦とは何か
それでは集諦というものを考えてみましょう。
こうした苦しみは原因なくして生じてきたものではありません。永遠不変の原因から生じてきたものでもありません。そして仏教の立場で考えるのならば、これらは創造主である神が作り出したものでもありません。では何故これらが起こっているのかというと、それはそれに対応した原因があったことによって起こっているのです。
ではそれに対応した原因というのは何でしょうか。
たとえば苦苦の場合を考えてみると、自分に苦痛を味わっている時に苦しみの感受がありますが、その苦しみの感受が原因である場合、たとえば殺生という行為を行う時に、他者の命を奪うことによって苦しみを与えていますが、また他者を罰を与えたら、他者に直接苦しみが与えられています。他者に罵ったのならば、他者に身体的な苦痛は与えてはいないですが、罵ることで他者の精神に苦痛がもたらされています。これらのように三門の行為による業が為される場合に、その業が行われる場合に、他者に対して身体的もしくは精神的な苦痛が与えられます。そのような業に対応した他者に対して苦しみが与えられているので、それと同じようなそれに対応した苦しみが異熟して起こってくることによって自分の側にも苦しみの感受が起こってきます。ですので結果である苦しみの感受に対応した他者に対する苦しみを与える業に対応した自分にもそれに対応した苦しみがもたらされるのです。
これと同じように壊苦の場合はもちろんそうですが、行苦の場合を考えてみると、壊苦というのは先ほど有漏の楽受といいましたが、一般に、楽受には有漏・無漏の両方がありますが、無漏のものには苦であるとはいえませんし、無漏の楽受というのは成就すべきものです。とにかく有漏の楽受は壊苦であるという場合には、楽受は有漏でなければならないのですので、煩悩のなすがままになって業を積んだその直後に、たとえば煩悩に動機付けられた他者を利益することなどや、煩悩や主として我執である無明によって動機付けられた善業は、壊苦である有漏の楽受をもたらします。これらは有漏でありますし、原因が成就された時には、有漏の業を積んであって、無漏の業ではありませんし、その業は善業であり、他者を利益するものでありますが、しかしながらその根本は煩悩になすがままになって積んだ業でありますので、その結果として楽受があることはあるのですが、あくまでも変化することを本質としており、永遠の楽ではないのです。
行苦の場合にもこれと同じようなことです。煩悩に支配されたものそれを行苦といいます。煩悩の力によって成立している、煩悩に支配されているという事は、この世界のすべてが煩悩の支配下にあるという事ではありません。この我々の作り出された世の中を為している原因が我執すなわち無明を基にして生じたものであるから、「結果が原因に左右されている」という意味で業と煩悩に支配されたと表現されるのです。そして、業と煩悩に支配されて作り出されこの世のすべては“行苦”であると説かれます。
このように結果である三苦が起こるのは、それぞれ対応する原因により起こっているのです。
集諦にも“業の集諦”と呼ばれる身・口・意の業があります。それは利害のどちらかを為しており、煩悩を動機としてます。このような業と、その業が有漏の業となるかは煩悩を伴うかどうかに依っています。この場合には煩悩の集諦に依っています・このようなことから釈尊は「業の集諦」「煩悩の集諦」この二つを説いたのです。すなわち苦の原因は業の集諦と煩悩の集諦の二つである、そう説かれたのです。
滅諦と道諦とは何か
滅諦とは道諦
「滅諦」とは何かと言いますと、それは苦の原因を断じたことで苦しみから逃れた状態のことを指しています。そして滅諦は永遠不変の究極の楽の境地であり、「常楽」とも呼ばれています。この常楽の境地を目的とし、実現するための手段となるもの、それが“道諦”と呼ばれるものです。
般若経と滅諦・道諦
滅諦や道諦を深く理解しようとするのならば、「無我とは如何なるものことなのか」ということをよく知る必要があります。無我の理解は、滅諦を実現可能とするものであり、道諦そのものでもあります。ですから、「無我」の見解に懸かっています。
無我については、初転法輪の時にも説かれてはいますが、究極的な意味での無我、それは「空性」ですが、 これは般若経典で詳しく説かれるものです。般若経典は「仏母」とも呼ばれます。
般若経には様々なものがあり、通常我々がいつも唱えている『般若心経』をもふくんだ、経典群です。チベット語訳の般若経には二、三十種類はあります。般若経のなかでも詳しいものが、『仏母十万頌』(大般若経)です。我々がいつも唱えている『般若心経』 これは般若経二十五種のひとつに数えられ、二十五頌よりなるものです。また般若経の中で最も短いものは「ア」という一文字だけしかありません。この一番短い般若経は短母音の「ア」の一文字だけですが、それは否定辞で、「無自性」「無」のことを説いているものです。この否定辞によって空性、つまりすべてのものが顕れている通りには成立していないことを表現しています。このように無我の意味の微細な説明は般若経典に説かれています。