四諦説は因果を説くものです。即ち獲得する果である常楽とその因である道諦、果である苦とその因である集、このように因果関係に有るものが説かれています。この因果関係こそが仏教思想のなかの、四つの学派すべてが認める仏教独自の思想でありすべての学派が認めるもの、これが「因果縁起」であり「縁起」と呼ばれるものです。
龍樹が釈尊を讃嘆する際に、主に “釈尊は縁起を説かれた”“この教えは比類なきものである”と何度も讃嘆なさっています。この「縁起」の意味は三つ有ります。
因果縁起
第一の意味は「因果縁起」です。善悪の如何なる果も各々の因により生じるのであり、無因や常住な因より生じたものでもなく永遠自在の人格が創造したものでもない、と説かれています。これが縁起の第一の意味です。これは仏教のすべての学派が同じように認めているもので「有為縁起」とも謂われています。
依存して仮設されているもの
そして中観派による「縁起」の解釈としては、「依って仮設されるもの」という縁起の解釈です。
これは例えばこういう事です。如何なる法であれ それは自己の部分に依っており、“部分”を持たない法はひとつも存在しません。この様に部分に依る限り、その部分を持つものはその部分に依って想定できるのです。例えば、私たちの「身体」を考えますと身体には様々部分が有りますね。頭 ・手・足と沢山の部分が有ります。「身体」というその総称はそれらの部分に依って名付けられています。それらの部分を切り離して、「ここが身体です」とは言えません。同時にその一部分だけをその部分を有する“身体”と総称する事も出来ません。ですが“身体”という各部分を持ったその、何某かを想定すべきですしそれは存在しています。しかしそれを探してみれば、部分を切り離すと見出せなくなるのです。こういう訳で何であれ 部分を持つものはその部分に依存し想定されています。これと同じ事が 「私」 “人”の場合にも起こっています。これらは蘊に依存して想定されます。
たとえば私たちの意識である特定の人の名前を考えると分かるでしょう。たとえば「佐藤」と言うだけですぐに「佐藤」の五蘊を思い浮かべ意識するのであって五蘊をイメージしないで「佐藤」と想像できませんよね。“あの人だ” と言い言語化する時には、言語化される対象の形相を思い浮かべる事で、あの人だ と意識できるじゃないですか。この時に何かを意識してそれに依って「これは¥UTF{FF5E}だ」と名称を意識することとなりますよね。この時には その何かに依存して想定しているのです。蘊に依存した“我”蘊に依存した「私」等です。「佐藤」という人の五蘊に依って想定する「佐藤」です。その人の住居・家族・身体等の様々な要素の混じり合った、その集合体に依存して想定したのが「佐藤」です。これが依って仮設する事です。五蘊に依って生じたのではありませんが、五蘊に依って想定するじゃないですか、“依って生じた”といえば時間的に前後しますが、“依って想定する”といえば同時でもいいのです。同時縁起を想定できます。仮設とその対象は同時と言えます。
仮設されただけのものという意味
こうして中観派の「依って仮設された」という「縁起」には、更に「部分に依って仮設される」という意味だけではなく、
これが一つですが、これよりも微細な意味を考えると「佐藤」と言う名前が付けられている場所は、「佐藤」の五蘊です。しかし佐藤の五蘊を「佐藤」としていますが、「佐藤」の五蘊 すなわち色・受・想・行・識、この五蘊の中で「佐藤」であるのはどれかと言うと全く無い事になります。もっと簡単に言えば「佐藤」の心や身体を「佐藤」と呼びますが、身体の部分 頭から足この何処にも「佐藤」であるものは全く無いのです。
同様に「佐藤」の心も感官知、意識 そのいづれも意識のなかでも 覚醒時、起きている時の意識も夢を見ている時の意識深く眠っている時の意識、老いて行く時の意識、最期の死の光明の時の意識、これらを幾ら考えても「佐藤」である部分はこれだと指差せるものは何も無いのです。「佐藤」の心と身体以外のものを「佐藤」だとする事も出来ませんし、「佐藤」たるものを探しはじめると「佐藤」たるものを探そうとしてみるとその顕れに満足しないで探しても何も見出せません。
それでは「佐藤」というのは無いのかというとそうでもありません。「佐藤」と呼ばれる本人は必ず存在して居ます。「佐藤」と言われる本人は居るじゃないですか。存在している事は確かですが、その存在の場は 「佐藤」と呼ばれているその五蘊の上に存在する筈であり、その五蘊を置いといて他の場所に五蘊は東とし 「佐藤」を西に探しても見付かりません。「佐藤」が有れば 「佐藤」の五蘊の上に有る筈です。しかし五蘊の上で探しても全く見出す事が出来ません。
それなら「佐藤」とは一体何なのかと言えば、蘊に依存して想定されたそれだけのものと言えます。それだけのものなのです。このように如何なる法も対象自身の側からは成立しません。名称によって存在するだけで対象自身の側から成立しないのです。じゃあ 名称以外には何も無いのか と言えば、そうではありません。名称以外にも対象は有ります。それは有るのは有りますが、しかしそれが有る事は名称によってだけ分かるのであり、対象自身の側からは成立していないのです。これが“無自性”とか“本性により成立しない”事です。このような事から“一切法無自性空”“名称のみ” “仮設のみ”“依って施設されたもの”こう説かれるのです。
この龍樹の独自の解釈が、釈尊が説かれる経典の密意の究極となるのです。たとえば私たちが「色即是空 空即是色色不異空 空不異色」と言う場合の意味の核心がこれです。別の経典の文言では
色は空について不空であり、色自体が空なのである
この場合「色」を対象自身の側から有るとして、対象自身の側から成るこの「色」は、否定対象と異なるものについて空なのではないのであり、色は空性について空とはせず色それ自体が空である。
では色は「空である」と言う時色は「無い」のか。色が色として無いのか。色は色として無い とすれば、色は畢竟無になってしまうでしょう。もし色が畢竟無であれば、有法である色が無ければ、その有法の上にある法性の色を想定できません。
「色は空について不空とし、色自体が空なのである」。色自身がもし不成立ならば、色自身が量により認識されず色自身が無いのであれば、この色の上で法性を想定する事は出来ませんね。
「色即是空。空即是色」と法性である空性とその有法の色が有ります。その有法の色が有るからこそその自性空の法性が考えられます。もし有法自体が無いのなら、もし“自空”の意味が“それ自体が空である”事なら、それ自体が成立しなければ無いことになりますね。
有法が無ければその上の法性も無い事になりますね。法性は、有法に依存しないで法性単独のものは無い、そう謂われます。「法性」という言葉は「その有法の本性」「その有法の究極の実相」「その有法が正にそれそのものである」だからこそ「法性」なのです。
ですから何らかの実相 本質、何らかの法性というのはその基体たる有法が無ければ、法性となることも有り得ないのです。
だからこそ釈尊は経典において色から一切相智迄のこれらの法を述べて、これらの有法を先ず述べて、その一切が“名称に過ぎない”“仮設されただけである”。“本性によっては成立しない”説かれるその有法は有るじゃないですか。ですから有法が無ければ法性も存続不可能なのです。
ですから“色は空について不空であり色自体が空なのである”これは色は対象自身の側から成立することに関して空であり、色自体は仮設の基盤の側からは成立しないという事です。「色」という名称が仮設される「色」という対象は有りますが、“色”を想定するためには名称以外には何も無いのです。名称以外には対象は無いのかと言えばそれも違います。対象は有りますし、量によって成立しています。対象としての働きを為しています。しかしその働きをしている対象自体は一体何かと言えば、名称以外 仮設されたもの以外には何も無いのです。
これが「照見五蘊皆空」『般若心経』で説かれるのです。
縁起説こそ仏教独自の思想である
こうした「縁起」という説は仏教に独自な思想です。インドには沢山の哲学が有りますが、インド以外の中東のユダヤ哲学、キリスト教哲学、イスラーム哲学、ゾロアスター教 等多くの思想・哲学が有りますが、“縁起”の思想は仏教以外にはないといっていいでしょう。
もちろん世界の創造主を認める宗教に縁起説は有り得ません。また世界の創造主を主張しなくても、ローカーヤタ学派等は縁起思想を認めません。サーンキヤ学派等の常住な根本原質を主張するのならば、縁起説は有り得ないのです。
そして、空衣派等も世界の創造主を恐らく認めませんが、業果説は主張しています。しかし苦楽の受容者は我であると説くのであって、不変で単一の我が有り、それは不変にして常住であり、単一で何にも依存していないものであると主張しています。精神というか霊魂である“我”を主張しているのです。ですから縁起説とは一致しない事になります。このように「因縁生起」という「因果縁起」の説は 仏教特有なのです。これは仏教のすべての学派に共通しています。
「依って有る」という二つのレベルの縁起説は中観派が説くものです。依って成立するという縁起はすべての法の本質となります。