漢文に依らなくてもいいのがチベット語仏典です。チベットの仏教は中国を媒介にしていません。インドから直接伝来してます。中国に仏教が伝来した後約400年後 チベットへ七世紀から八世紀にかけて仏教が伝来しました。7世紀から8世紀にかけて仏教は伝来したのです。この時にもちろん部派仏典からも翻訳されてはいますが、梵語仏典から訳したものがその主な経典です。部派仏典と梵語仏典を直接チベット語に訳したのです。
チベットでは8世紀にナーランダー僧院の大学者、龍樹の伝統を汲む方、シャーンタラクシタ 彼がチベットにいらっしゃり、チベットに20年程滞在されました。インドの歴史家たちの説ではシャーンタラクシタがチベットに来たのは75歳の時だそうです。その後チベットに20年程暮らし100歳位で入滅したそうです。彼の一番弟子 カマラシーラ彼もチベットに来られました。ある説ではチベット人がカマラシーラを殺害したとの事です。カマラシーラを追想する為に殺したという説ですね。
それ以降多くのインドの学者がチベットに来られました同様にチベットからも多くのチベット人がインドへ留学し、サンスクリット語を学び多くの仏典を翻訳しました。こうしてチベットにはインドから翻訳した仏典は300巻以上あります。これらは翻訳する時にチベット人の翻訳官一人と校正するインドの学者が一人とで常に共同で翻訳しています。いずれにしてもチベットではインドと直接関係し翻訳されたのです。
ですので私はいつもこのように言っています。チベットの仏教は西欧では“ラマ教”と言う人もいますが、これは間違いです。チベットの仏教は、ナーランダー僧院の法脈を忠実に伝えたものなのです。たとえば、私たちが、チベット人の僧侶で教理を学ぶ者たちは 全員、幼い時から 暗唱する仏典は、ナーランダー僧院の学者の本ばかりです。私の場合でも7、8歳の時に『現観荘厳論』を暗記しました。『入中論』も暗記しました。その後で『倶舎論頌』を暗記しました。『量評釈』もいくつかは暗記しました『根本中論』は全部は暗記はできませんでしたが、いつも読んでますし『四百論』も同じです。『入菩薩行論』もそうです。これらは総て梵語仏典を下にしているのです。ですから我々の主な仏典は、梵語仏典に原典がありなおかつナーランダー僧院の学者が書いた著作にほかなりません。我々が仏典を説明する時、ナーランダーの学者の説をベースに説明しています。ですからチベット仏教のその根本は、ナーランダー僧院の正当な法脈に有ると断言できるのです。
龍樹の流れを汲む者、みなさんもそうですね恐らく中国仏教では、龍樹と無著をメインにしてますよね。皆様もナーランダーの法脈に有るということになります
この様に我々は皆釈尊の弟子であり、龍樹菩薩の弟子であるこれは同じです。
またある伝承ではカマラシーラは中国へ行ったという説もあります。聞いたことありますか?中国へ行ったという説です。後でチベットに再び来た時パダンパ・サンゲーです。そんな伝説もあるようです。
もしも、これが事実ならカマラシーラ殺害は無罪放免です。カマラシーラはサムイェー寺で摩訶衍和尚と問答をしてその後で中国へ渡ったとこの説では言っています。中国へ渡り五台山に滞在されその後 行者の姿へ変わり、パダムパ・サンゲーという名でチベットに戻ったとの事です。ミラレパの時代にです。パダムパ・サンゲーとミラレパは直接会っています。『ディンリ百編』を著された大変な大成就者です。もしこの伝承が本当ならカマラシーラをチベット人が殺害したことにはなりません。殺害した容疑からは無罪放免ってことですね。
そもそもカマラシーラはとても大切な人物です。シャーンタラクシタの一番弟子ナーランダーの大学者です。チベットにとってこんなに大切な人物をチベット人が殺害したのが事実なら今も我々は反省すべきでしょう。
シャンターラクシタをチベット人は九百年、千年生きたと言います。インドの知人によればチベット人が90にゼロを付けて900にしたんじゃないかという風に言う人もいます。
またインドの友人に聞いた話では、今まで千年も生きている行者がインドに居るらしいです。私もある行者に会いました。彼は何百年も生きているって自分で言っていました。でも私は信じれませんでした。
龍樹の時代に始り般若経典に対する註釈でそこに説かれる無我の意味を説明する時段々と四つの学派が形成されました。中観派が最初です。その後でもちろん釈尊在世の時代から居た事は居たのでしょうが、『入楞伽経』『解深密経』にも登場しています。主にこれの経典が説かれた対象の人々です。これらの聖典に基づき「唯識派」「すべては表象のみである」この説の伝統 これ自体は、釈尊自身が説かれたその説に従った人々です。この伝統をより大きく普及させたのが、無著兄弟です。兄の無著 アサンガと弟の世親ヴァスバンドゥです。この二人が唯識派の思想と実践法を一般に非常に広く普及されたのです。
こうして中観派と唯識派二つの学派が成立しました。毘婆沙部の学説のなかで特に正しさというものに非常に関心の高い人々が次第に増えたようです。彼らが「経量部」と呼ばれる一つの学派を形成しました。経量部にも二つあり「聖典追従派」と正しい認識を中心とする認識論・論理学を中心とする“正理追従派”とが有ります。経量部独自の書が有るかどうかは分かりませんが、毘婆沙部の教理を拡大し多少修正した形で成立したのが“経量部”という学派です。
梵語仏典をメインにした中観派 そして唯識派、このように四つの学派が成立したのです。上座部では毘婆沙部の学説を主としています。上座部やパーリ聖典は毘婆沙部がメインです。梵語仏典の伝統は中観派と唯識派が主です。その中でも中観派がメインとなります。このようなことから“無我” ー この事の解釈は中観派の解釈が最も深遠なものです。甚深空性についての中観派の解釈、特に龍樹の独自の解釈はブッダパーリタとチャンドラキールティこのお二人の解釈がもっとも深遠なものです。
ブッダパーリタは中国に行った説もあります。また『解深密経大註』を書いた「管主 圓測」という人が居ます。彼は韓国人だそうです。彼の著作はチベット訳になってます。大蔵経のなかにあります圓測の著書です。ジェ・リンポチェは中国人か韓国人がご存知なかったようですね。ジェ・リンポチェは「中国の管長」と呼んでます。ですから我々も中国人だと思ってましたけど韓国人に聞きましたよ彼は韓国人ですって。