10月はターラー縁日が開催されたため、一ヶ月あけての法話会でした。今回は安楽寺の客殿の2階で行われましたが、窓から望む紅葉がとても綺麗でした。
『道の三要訣』5回目の今回は、これまで学んだ出離と菩提心の復習から始まりました。
『道の三要訣』では、出離、菩提心、空性の順番に説かれますが、まずは苦しみから逃げたいという出離から出発します。それも一番最初は「自分が苦しみから逃れたい」という思いから出発します。逃れたいものと得たいものを分類すると、以下の3つに分類されます。
苦を望まず幸せを求めるのは全ての生き物が同じです。そのため自分だけではなく、全ての生き物が解脱を得るようにするためにまずは自分が仏となろうと志すのが大士です。目的も大きく得るものも大きいため、これが大乗の見解と呼ばれます。
中士の段階で逃れようとする三苦とは苦苦と壊苦と行苦です。苦苦は肉体的な痛みのような、誰でも苦しみとわかる苦のことです。壊苦とはある場合には幸せと感じられますが永遠には続かず、結局は苦しみに変わるような苦しみです。たとえば、猛暑の中で涼しさを感じれば心地よさを感じますが、しばらくすると寒さを感じ、暑さを求めるといった苦しみのことです。行苦は業と煩悩によって作られた苦しみです。これが輪廻の中心であり、解脱を得るために断ずべきものです。それも自分だけが苦しみから逃れるだけではなく、他の生き物を苦しみから救いたいという思いから菩提心を起こすのです。そのために全ての生き物が母であると知り、母の恩を知り、その恩に報いようと思い、そのために大悲を起こし、大慈を起こして、努力しようと決意して菩提心を起こすのです。無始の始まりから続く輪廻の中で、自分の母親になったことのない生き物はいません。今世で自分を育んでくれた母を思って母親の恩を思います。その際、母親を執着の対象としてでもまた嫌悪の対象でもなく、平等な対象として思い描きましょう。自分の苦しみから出発し、「他の生き物の苦しみをなくすために私ががんばって一切智者となろう」と決心するのです。そして、具体的に六波羅蜜を行じていきます。
六波羅蜜とは、
① 布施波羅蜜
② 持戒波羅蜜
③ 忍辱波羅蜜
④ 精進波羅蜜
⑤ 禅定波羅蜜
⑥ 智慧波羅蜜
の6つです。
布施というと、一般にものや財産を施す財施のことを考える人が多いと思いますが、布施とはそれだけには限りません。菩提心や空性を修習して、そのことを施そうと心の中で念じることも布施になります。法を説く法施も布施ですし、生き物の恐れを取り除く無畏施も布施にあたります。金や物を誰かに与える場合、与える対象は一人しかいません。しかし、布施は一切衆生に施そうと観じることによって、対象に限りがないので、そこから生じる功徳も無量の功徳となります。祈るときは自分の幸せだけを祈るのではなく、同様に一切衆生の幸せを祈りましょう。商売をするなら、全ての生き物のためになるように商売をしていると考えましょう。このように自分のことだけでなく、全ての生き物について思いを巡らせることによって、他人を蹴落とそう、やっつけてやろうという考えが治ってきます。反対にいつも自分のことばかり考えていると、他人の不幸を望み、自分だけがのし上がろうと考えるようになります。
持戒とは、不十善を行わないことです。不十善とは身体で行う不善、言葉で行う不善、心で行う不善の三種類があります。身体的な不善は、生き物を殺す殺生、他人のものを奪う偸盗、他人のパートナーと性的行為を行う邪婬の3つがあります。言葉で行う不善は、嘘をつく妄語、無駄話をする綺語、他人を傷つける言葉をいう悪口、他人を仲違いさせる両舌の4つです。妄語の中でも、特に自分には徳がないのに徳があると言ったり、悟っていないのに悟ったと語ることが罪が重いとされます。心で行う不善は、何かを貪り求める貪欲、怒り憎しむ瞋恚、間違った考えを持つ邪見の3つですが、これらから苦しみが生じます。これら不十善を行えば苦しみが生じるのは、何も来世に限った話ではありません。これらを行えば今世での社会一般の法や律にももとります。これら全てを行わないことが一番ですが、それができなくでも正直になることが大切です。人を騙すことなく正直に生きていれば、他人から信頼を得ることができます。反対に嘘をついたり盗みを行っていては自ずと他人は自分のもとから離れて行ってしまいます。また、たとえ今生でできなかったとしても、徐々に徐々に守って行けばこれから続く長い来世に習気を残すことができます。
忍辱とは、「自分に誰かが嫌なことを言ってきたことに耐える」ということではありません。この忍辱波羅蜜とは「たとえ自分に損や問題が生じたとしても、他の生き物に利益があるならば忍受する」という耐えることを指します。お釈迦さまの前世綺譚にこんな話があります。ある時お釈迦さまが船に乗っておられた時のことです。その船には100人の商人が乗っていました。そのときミナートゥントゥンという男が、(この商人100人を殺せば、こいつらの財産は全て自分の物になる)と考えていることにお釈迦さまはお気づきになりました。その時お釈迦さまは、(もしミナートゥントゥンが100人の商人を殺せば何世にも渡って地獄の苦しみを味あわなければならない。それあらば私が彼を殺した方が、一人の殺生をした罪ですむ)とお考えになり、お釈迦さまはミナートゥントゥンを殺されました。自分が殺生を行えばその罪を自分が積むことになりますが、それによって他人が悪業を積むことをお止めになられたのです。このように自分がたとえ不利益を被ろうとも、他人のために耐え忍ぶことが忍辱と呼ばれるのです。親と子、夫婦や恋人同士など、時として言い争いや喧嘩になります。その時、自分が耐えればどうなるか、反対に耐えなければどうなるかをよく考えましょう。また、たとえ怒り返すにしても、すぐに相手に怒るのではなく、しばらくしてからゆっくりと「こうすればこうなるでしょう?」というふうに諭すだけで、怒りを直接ぶつけてはいけません。また怒り返さないことによって、相手も(自分が言いすぎたのに、この人は言い返さなかった)とあなたを見直すことになるでしょう。しかし反対に怒りに怒りで対応していれば、その怒りはますます大きくなり、信用はなくなり、疑いばかりが生まれてきます。
しかしチベットのカムの男たちは屈強で知られていますので、人になにか言われて言い返さないと腰抜け呼ばわりされてしまいます。しかし、よくよく考えてみるとこんなバカなことはありません。
これらは決して来世に限った話ではないのです。良いことを行い、悪いことを行わなければ自ずと人との関係はよくなります。家族の仲がよければ、食卓に笑顔が絶えずご飯もおいしくなります。法は今生の生活とも合致したものなのです。
実相を理解する智慧が無ければ
厭離や菩提心を修習したとしても
生存の根源を断ち切れないので
故に縁起を証す方便に励みなさい
実相とはいついかなる時も、必ずそうなるものですが、ここでは縁起のことを指しています。自分だけで成立し、他に依存しないような存在があるかと考えると、そのようなものは存在しません。そのような縁起を知る智恵がなければ、厭離や菩提心を修習したとしても生存の根源を断ち切ることができないのです。この生存の根源とは縁起とは対極的に、何ものにも依存せずに独立自存のものとして存在すると考えることです。これをなくすためには、いくら祈っても五体投地をしても意味がありません。生存の根源をなくすためには実相を理解する他ないのです。
輪廻の中心は、独立自存のものと間違って思い込んでいる「私」、すなわち我執です。我々は「私」を中心に置き、私の気に入るものには執着し、欲しくないものには瞋恚を起こします。私を中心として、身体と言葉と心を通して業を積んで輪廻するのです。この思い込みをなくすためには、色によってなりたっている「私」が決して独立自存の存在ではないということを、何度もなんども考えて、徐々に執着をなくしていくのです。そのためには、実相、すなわち正しいあり方を理解することが必要です。
例えば、米は種と大地と水と光がなければ生えてくることはありません。他に頼って存在するというあり方、その実相を理解する智慧がなければ生存の根源を断ち切ることができないのです。もちろん、厭離と菩提心を修習するだけでも利益はあります。しかしそれだけでは輪廻を断ち切ることは不可能なのです。
輪廻から涅槃までの一切法の
因果は決して欺かないと観じつつ
所縁への強い思念がすべて滅す時
諸仏の歓喜する道へと入っている
現在、過去、未来いついかなる時も、すべての法は縁起すると見たならば所縁への強い思念がすべて滅します。諸仏が今生に生じる理由は、一切衆生の苦しみをなくすことです。ツォンカパが『縁起賛』を著した意味もここにあります。我執を根本として業を積み輪廻を繰り返している我々に、解脱をするための道をお示しになっておられるのです。
果物にしても米や野菜にしても、条件によらずしてそれだけで生えてくることはありません。子どもは父母から生まれてくるように、全ては何かによって成り立つのです。しかし、我々は何かを目にした時、それが確固とした独立したものであるかのように感じます。例えば、家を目にするとそれを一つの物質、それだけで成りたつものかのように我々は考えます。しかし家は柱や壁から成り立っており、それも木や土といった様々な材料で作られているのです。同様に「私」を見ると、間違いなく自分だけで存在しているかのように我々には映ります。しかし五縕によらずして「私」は成り立ちません。
寺の授業で先生が話す例話にこんな話があります。年老いた金持ちの老人が、若い貧しい若者に、金をやるから体を取り替えようと提案しました。金が欲しかった若者は、それに合意して肉体を取り替えました。この話を聞くと、我々は科学さえ発達すればこんなことも可能になるのではないかと考えないでしょうか?しかし、五蘊というこの身体を離れた「私」はありえません。この話を聞いて、我々は肉体と精神は、何か取り外し可能なものかのように錯覚していることがわかります。「私」についての思い込みは、紙幣についての思い込みと同じです、いま我々が使っている紙幣はもとはただの紙です。紙と物が同等の価値を持っているという共通の信頼のもとに紙幣を使っているのです。「明日、その価値がなくなります」と言われれば、明日からその価値はなくなってしまうのです。「私」とは紙幣と同じで、五蘊に「私」という価値があるように思い込まれているだけなのです。
顕現するものは縁起であり欺かず
空は承認が無いという二つの理解が
各々別々に顕れている限りにおいては
牟尼の密意を証解することはないだろう
子は父母から生まれるように、また豆や野菜も条件によって生えてきたように、すべてのものは何かの原因から生まれます。これは確かなことで、決して欺くことはありません。しかし自性が空という縁起の輪廻と空の輪廻をそれぞれ別々に考えているうちは間違いなのです。
「ある」と「自性としてある」は別です。また、「ない」と「自性としてない」もまた別です。「ある」ならば必ず「自性としてある」必要はありません。「自性としてない」からといって「ない」ではないのです。縁起や業果はありますが、自性としては存在しません。兎の角は、自性としてもありませんし、そもそもがありません。
仏教の四派のうち、説一切有部と経量部では、「ある」ならば「自性としてある」のことですので、あるを区別して考えません。唯識は身体や識は「自性としてある」と考えますが、顕れているような形では存在せず、習気として顕れているだけだと主張しますので、少し中観派の考えと近くなります。中観自立派は自性としてあることを否定しますが、言説としてあると主張します。中観帰謬論証派では、言説としてさえもないと主張します。しかし、自性としてないならば「ない」ではななく、ただ名をつけられたものとしてあるのです。
依って存在するという縁起と、自性としてないという空は、天秤のように一つが重くなれば一つが軽くなるといったようなものではありません。二つは同時に成立するのです。
また顕現により有辺を排除することと
空により無辺を排除する空性との二つが
因と果として顕現する法規を知れば
辺執の見に惑うことはないのである
依ったものとしてあるということにより有辺の過失を退け、自性としてないことによって無辺を退けるのです。依ったものとしてあるから恒常的変わらない独立自存在ではなく、自性としてないからそれ自体が存在しないわけではないのです。変わらず恒常的な存在としてあるのではなく、依ってあるのであり、全く存在しないわけではなく自性としてないのです。
(かくいう先生も屈強なカムの男ですね)
以上が11月7日に行われた法話会の内容でした。12月はお休みして、次回は1月の予定です。