雨続きの京都でしたが、法話の行われた9月5日は久しぶりに太陽が顔を出しました。夏の暑さもやわらぎ、過ごしやすい気候でした。
7月、8月とお休みが続き、今回はツォンカパの『道の三要訣』の4回目でした。
我々は以前に積んだ業の結果を異熟果、等流果、増上果という三つの形で受けます。
具体的にこれらの果がどのようなものかというと、異熟果というのは薀、すなわち私たちのこの身体のことです。等流果というのは、原因とみあった結果を受けることです。例えば何か自分が苦しんでいるのは、以前に自分が他人を苦しめたからであるような場合です。増上果には共通の増上果と特別な増上果があります。例えば、「日本に生まる」というのは日本人に共通の増上果ですが、「ある家庭に生まれる」というのは人それぞれ特別な増上果です。
これらの果はすべて業と煩悩、そして無明の結果です。これらを原因として、私たちは輪廻を回り続けることになるのです。それはあたかも水の波紋がいつまでも広がっていくのと同じように、止まることがありません。そして、輪廻のなかで苦苦、壊苦、行苦という三苦を経験するのです。輪廻にある限り、どこに生まれようとも結果は苦しみです。なぜかというと、それが業と煩悩の結果であるからです。
例えば、衣食について考えてみても、それが苦しみであることがわかります。食べ物ひとつを得るために、私たちはどれだけの苦労をしているでしょうか?かといって、食べ物がなければ今度は空腹で苦しみを味わいます。食べ物は有っても無くても苦しみなのです。輪廻は針先のように、どこを触って痛みが生じるのです。
(みんな大好きヤクの干し肉)
『菩提道次第要約』には「苦しみのあり方を知らずして、解脱を求める心は生じない」と説かれています。体調が悪くなった時、自分が何の病気を患っているのかわからなければ、そこから治りたいという気持ちが出てこないのと同じです。
では、輪廻から逃れたいと思うだけでいいのかといえばそれでは不十分です。その苦しみはどうやって集まってきたのか?原因は何なのか?苦しみを根本から断ち切るためにはどうすればいいのか?と考えたならば、やはり出離が必要です。
苦しみから逃れたいと思うためには、まずは苦しみであることを知ることが必要です。そして解脱を求める心が起こったならば、輪廻を根本からなくすために「集」のあり方を知ることが必要なのです。
苦諦を理解し、「苦しみが来ませんように」といくら祈ってみたところでどうしようもありません。苦しみはどうやってやって来るのか。またそれを無くす方法があるのかどうか考えて、無くす方法があるならば、それに取り組むしかありません。
いくら金持ちであったとしても、死に際してその財産を来世まで持って行くことはできません。法を行い、善業を積んだことのその習気だけが、来世のためになるのです。
苦しみは原因のないところからやってきません。ではその原因は何かというと、業と煩悩です。しかし更に業と煩悩の原因を突き詰めていくと、そこには我執が見えてきます。我執とは「私」のことですが、これには実際に「存在する私」と「存在しない私」とがあります。存在する私は何かというと、薀の集まり、つまりこの身体から出来上がって私です。何かの行為を行うその主体である私は存在しています。しかし、我々は「私」と考えるときに、何か確固とした存在、何ものにも寄らず、それだけで存在しているかのような「私」というものを考えますが、そういう私は存在していません。「私」をあたかも独立自存の存在であるかのように思い込み、「私はあれが欲しい、あれがしたい」「あいつは私を攻撃してくるから私の敵だ」と考えて業を積み輪廻を繰り返すのです。
しかし私とは、五蘊が集まったものに仮に名前が付けられただけのものです。「私」がどこにあるのかと探しもとめても、決して得られません。「私は頭か」と問われれば否と答えますし、「私は手か」と問われてもやはり否と答えます。しかしこれらは私の頭であり私の手です。こうした部分が集まって「私」は出来上がっているのです。
『道の三要訣』の著者であるツォンカパ尊者が最高の学説であるとする中観帰謬論証派では、粗大人無我と微細人無我を主張しますが、経量行中観派以下唯識派、経量部、説一切有部ではこれらの人無我は主張しません。
このように修習して輪廻の円満を
願うことが一瞬たりとも起こらずに
昼夜常に解脱を求める心が生じれば
このときに厭離心は起こるのである
以上のように、人はどのように輪廻し、そこから逃げたいと思う心を起こすかを確認し、『道の三要訣』の三つの一つに厭離心を置く理由を勉強してきました。
(畜生に生まれると、人に使役されて一生過ごさなければなりません)
この厭離も清浄菩提心を伴わねば
無情なる菩提の円満な因とはならないだろう
それ故に智慧の有る者たちは
無上菩提心を起こすべきである
では厭離があればそれで十分かといえばそうではありません。そこから更に「利他行を行います!」という心があってこそ、菩提の道になるのです。ここの菩提の円満なという円満には以下の3つの円満があります。
— 解脱を妨げる煩悩障と所知障の二障を断じるという円満
— 世俗諦と正義諦の二諦を理解する円満
— 利他を行う円満=
声聞、独覚は自利を行い解脱を得ることはできますが、菩提心を起こすことはありません。一方大乗では自分のためだけではなく利他を行い、煩悩障と所知障の両方を断じて菩提心を起こします。
仏身の区分は、①自利身と利他身に分ける二身と、②智慧法身と自性身とに分ける三身、③智慧法身、自性身、受容身、化身の四身にわける説があります。
強烈な四種の暴流に流されている
退け難き業の縄に縛られている
我執の鉄格子に閉じ込められている
無明の漆黒の暗黒に覆われている
終わり無き再生は繰り返されている
途絶えることなく三苦に悶えている
このような境涯に悶えている母たちの
気持ちを考え勝菩提心を発すべきである
ここでいう四種の暴流というのは『倶舎論』で説かれる無明、見解、執着、有の4つのことです。この無明とは業果と我執を理解していないことです。仏たちは業を断ち切っていますが、我々は因果の法を知らず無明の中にあるために、楽を求めながら輪廻をさまよい、三苦に苦しんでいるのです。
ここでいう母というのは、執着しすぎる対象でも敵意を向ける存在でもなく平等な対象としての母親です。我々は始まりのない輪廻の始まりから長い間輪廻をくる返してきました。自分の輪廻が数限りないのと同じように自身の母親であった生き物も数限りがありません。そう考えると全ての生き物がかつては自身の母親であったことになります。
このように、まずは全ての生き物が自身の母親であったことを思い起こします。そして、今生の母親が自分を育んでくれたことを思い起こします。そしてその恩に報いようと考えます。そして苦しみの中にある母が苦しみと離れ幸せとともにあるように願い、自分が母を助けようと固く決意します。そして発心するのです。これをまとめると、
①母と知る
②恩を知る
③恩に報いる
④大悲を起こす
⑤大慈を起こす
⑥決意
⑦発菩提心
となります。これは菩提心を起こすための「因果の七秘訣」と呼ばれます。発心するためにはもう一つ「自他交換」の方法があります。これは自分と他を置き換えて考えることです。自分が日頃欲している楽が全て他の生き物にあればいいのにと願うことです。
このように考えることは仏教を学び始めたばかりの頃は難しいかもしれません。しかし、毎日くり返し考えれば、少しずつ慣れていきます。ダライ・ラマ法王もおっしゃっておられるように、死ぬ時に菩提心を思い起こすことが出来たならば、悪趣に落ちることはありません。また、「私とあいつ」というふうに区別して考えることがおさまってきます。「死ぬまで利他を行おう」と思うことが大切です。
以上が9月5日に行われた法話の内容でした。次回は11月7日です。