私はロサン・プンツォといいます。東チベット・カム地方のリタンで生まれました。
リタンはチベットのカム地方にあり、広大に拡がる草原や森でとても有名な場所です。リタンの夏はとても美しく、大草原には多くの花が咲き、リタンの冬はとても寒く、夏と冬の気温差は非常に激しい場所です。街のはずれにはダライ・ラマ三世ソナム・ギャツォが建立したリタン大僧院があり、年に一番の夏の乗馬大会には、さまざまな場所から何千人もの人が訪れ、一週間くらいお祭りを楽しみ、ダンスをしたり、ピクニックをしたりして過ごすことのできる場所です。
私は若いときにリタン僧院で出家し、僧侶となりました。僧侶となってからは経典を暗記し、儀式を学んだり、仏教舞踏を学ぶ傍ら、僧院建築の修復や復興などの仕事にも携わりました。その後、弟が「ゴペル・リンポチェ」という化身ラマにダライ・ラマ法王から認定されましたので、私もインドに1993年にインドに亡命し、デプン・ゴマン学堂で学ぶこととなりました。
デプン大僧院は、チベット仏教ゲルク派の三大総本山のひとつで、チベット各地の僧院だけではなく、モンゴルやロシアにあるチベット仏教の寺院からも多くの僧侶たちが仏典の学習と研究を行うために集まってくる大きなお寺です。チベットの首都ラサにデプン大僧院は本来ありますが、チベット問題が起こってからは、現在は本山として機能していませんので、南インドの亡命チベット人キャンプに復興され、そこに深く仏教の教理を追及する僧侶たちが数千人も集まってきています。
インドに亡命してからは、弟に合流し、弟の世話をしながら、最初は伝統的なカリキュラムに従って、経典の学習や問答をして過ごしてましたが、学堂の寺務部の役員に任命され、さまざまな仕事をしなくてはいけなくなりました。私が担当したのは、主に学堂へのゲストの受け入れで、外国から来られるスポンサー、偉いラマたち、ほかの学堂の僧侶たち、その家族や友人など、すべてのゲストの送り迎えから、宿の手配、食事の手配などをすることとなりました。2002年までこうした仕事をし、その後、砂曼荼羅の作りかたを学び、外国に派遣されるスタッフになったのです。
日本には2003年11月に、はじめてやって来ることとなりました。まずは広島の宮島・大聖院に滞在し、薬師如来の砂曼荼羅を作りました。本来はその仕事が終わったら、アメリカで本山のアメリカ支部をつくる予定でしたが、さまざまなご縁をいただき、そのまま日本にいることとなったのです。翌年の七月からは、現在の広島の龍蔵院で「デプン・ゴマン学堂日本別院」としての活動を開始し、いまに至っています。
はじめて日本に来たときに驚いたのは、日本では海の近くに沢山の人が住んでいることでした。チベットには海はありませんし、インドでも海の近くではよく波に飲まれて家が流されるニュースを聞いていましたので、日本人のみなさんはあんなに海の近くに家をたてて住んでいて大丈夫なのかな、と毎日不安に思いました。
最初に滞在していた大聖院は山の途中にありましたが、宮島ですので、常に海の音が聞こえてきます。あんなに海の近くに住んでいる人たちは本当に大丈夫なのかな、と毎日心配に思ったものです。すこし経ってから、海の近くの土地やマンションは値段も高く、とても人気で、多くの人が高いお金を出して海の近くに住もうとするという話を聞いて、さらにびっくりしたものです。もちろんいまは日本に慣れ、こんな心配はもちろんなくなりました。
日本の土地はいつもとても美しく、人々もとてもやさしく、食べものもとても美味しいです。私たちチベット人が日本人に見習うこともたくさんあり、楽しくのんびり暮らす場所として、日本はとてもいい場所です。
私たちは普段は心おだやかに、のんびり、楽しく過ごしていますが、同時に、どんな人でも思いやりややさしさ、こういったものを忘れてはいけません。そしてどんな人であれ、それらの大切さについて常日頃から考えていなくてはいけないと思います。
世界中にはいまもさまざまな問題が起こっています。このすべては私たち人間の心が作り出したものです。自然災害などの不幸な状況も、私たち人間の心に影響を与えるものです。私たちの幸福も不幸もすべては私たちの心に関係したものなのです。
すべての伝統的な宗教では、愛や慈悲、忍耐、努力、これらが同じように必要であると説かれています。やさしさや思いやりは、私たち個々の人間だけではなく、すべての人にとって同じように大切にしないといけないものです。
経典には「母なる一切衆生を利益する」という言葉が説かれています。私たちは人間だけではなく、この世にいるすべての生きとし生けるものたちを、「私の母である」とイメージしなさいという教えです。
仏教では私たちは生死を繰り返し、輪廻転生していると考えます。この輪廻転生は始まりのないものです。今生の私たちには、何ヶ月ものお腹のなかで私たちを育ててくれ、その後も我々を守ってくれた私たちの母親は恩深い存在であるのと同様、すべての生きとしいけるものは、無限の過去を遡れば、どんな生き物であっても私たちの母親でなかった者はいないということになります。だからこそ自分以外のすべての生き物に慈悲心をもち、彼らに役立ちたいと考えることは当たり前であるということになるのです。
もしもこのように仏教的に考えることができなくても、すべての生き物は、どんな小さな虫であって、幸せになりたい、苦しみたくないという気持ちは等しく持っています。私たちは誰しも、自分は幸せでいたい、自分は苦しみたくない、そう思うのと、他の生きものも同じように思っています。
だからこそ私たちは他者を苦しめるようなことをするべきではないですし、他者の幸福につながるような他者に役にたつことを出来る限りしようとすることが大切なことになるのです。たとえ他者に役にたつようなことができなくても、少なくとも他者を傷つけ苦しみを与えるようなことをしないようにすることが大切なのです。私たちは誰しも自分のことばかり考えてしまいがちですが、まずは自分と同じように他者も考えていること、このことを忘れずに心がけ、他者に対して思いやりややさしさをもつことが大切になるのです。
私たちは毎日朝起きます。朝起きたときに、今日も私は元気に目が覚めたな、これは仏法僧のおかげだな、今日の夜、またここで寝るまでの間、できるだけ多くの人の役に立つことを出来たらいいな、それが出来なくても決して人を傷つけるようにしよう、そう決意するといいのです。
私たちはそうして様々な活動をはじめ、いろんな仕事をするでしょう。しかし夜寝る時、必ずひとりで落ち着いて、今日自分が朝決意したことは出来たのかな、他人に役立つことはどれだけできたかな、それを考えるといいのです。一日の途中で喧嘩をしてしまったり、他の生きものを殺してしまったり、他人を傷つけるような行動や言動をしてしまった場合には、そのことを今日のうちに反省をし、よし、明日からは決してあんなことはしないようにしよう、そう思って心穏やかに寝ることはとても大切なことなのです。
私たちひとりひとりがこういうことを毎日心がけ、他者にやさしくしようとするのなら、私たちやその周りの人は必ず幸せになりますし、そのことを通じてこの世の平和や幸福というものは自然と実現していくはずだと思います。
菩提心という宝よ
まだ起こっていないものに起こりますように
すでに起こっているものが増大しますように