2015.05.26

行くか行かないかは自分次第

前日までの夏を思わせるような天気とはうって変わって、説法当日は肌寒い気候でした。ゲンチャンパの荷物は、お経を入れた手提げバックだけ。とっても身軽です。

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今回からシャントン・テンパ・ギャンツォの著した『道の要訣の解釈 意味解明』をテキストとして使用することになりました。これからだいたい1年ほどかけて学ぶ予定です。

『道の三要訣』のテキストに入る前に、出離、菩提心、空性を理解する智慧の三つがなぜ必要なのかを考えてみる必要があります。この『道の三要訣』は、名前が違うだけで、『菩提道次第』と同じ内容が説かれています。『菩提道次第』とは、苦しみから離れる道が示されたものです。「人や神に生まれ変わるためにはこうしなさい」「解脱するにはこうしなさい」「仏の境地を得るためにはこうしなさい」と、我々に取るべき道を教えてくれるのです。『菩提道次第』では「小士」「中士」「大士」という名前を使いますが、『道の三要訣』と意味は同じです。出離も空性を理解する智慧も小士、大士に共通して必要です。菩提心は大士に必要です。一般に大乗と小乗と呼ばれるサンスクリット経典に追随する人たちとパーリー経典に追随する人たちは、共通して空性を理解する智慧が必要です。

ゲンチャンパは普段広島の山の中にある龍蔵院に住んでいますが、東京に行くには、途中、神戸と大阪を通らなければなりません。これを神戸=小士、大阪=中士、東京=大士とゲンチャンパは例えられました。

「私たちは言うなれば広島から神戸に着いた状態です。なぜかと言うと、人と神の境涯に生まれるというのは、三悪趣に堕ちる原因を断じてきたからです」

人間に生まれることは非常に稀だと説かれますが、私たちはすでに小士の境涯にあるのです。

「しかし、神戸から龍蔵院に戻るか、それとそのまま新幹線に乗って大阪や東京に行くかどうかを決めるのは、私たち一人一人にかかっています」

もし私たちが解脱を得れば、もう後に戻ることはありませんが、それまでは輪廻の中を彷徨い続けます。出離の念が生まれるためには、解脱したいと思う心が必要です。もちろん本当の出離の念が抱ければ一番ですが、そうでなくても今生の現れや悪趣、輪廻の過失を見てそこから逃げたい、そのために善を行おうと思うことが大切です。

法を聞いて善業を積み、密教を学び、また神通力に自在になったとしても、出離がなければ解脱にはつながりいません。三悪趣を厭い、解脱を求めることが重量なのです。一般に梵天や帝釈天は恵まれた境地であり幸せを享受できますが、解脱していないため輪廻し続けます。なぜなら彼らは輪廻の過失を見ていないからです。

三要訣のうち出離が必要な理由は以上のようですが、では出離だけでいいのかといえばそうではありません。出離はいわば動機です。解脱を願う動機だけがそろっても解脱は得られません。そのためには、具体的な方法をとる必要があります。病気になった時に「治れ、治れ」と念じているだけでは何にもならず、薬や治療が必要なのと同じです。

私たちが輪廻を続けているのは、業を積んでいるからです。では、どのように業を積むのかと言えば無明を理由に積むのです。これを無くさなければ、業を積むことを止めることは出来ません。私たちは朝起きて夜寝るまでの間に身体と口と心を通して様々な業を積みますが、ほとんどは「無明」を理由に業を積んでいます。無明とはすなわち「私」という考えです。このことを知らないために、執着や怒りといったものが生じてきます。根本である無明がなくなれば怒りや執着を一つ一つ断じる必要は無くなります。では、無明を無くすために何が必要かといえば、それが空性を理解する智慧なのです。

先ほどの神戸、大阪、東京の例に戻りましょう。出離と空性を理解する智慧があれば、大阪までの新幹線代はもう払い終わったのです。ここから更に東京まで行くためには、新幹線代を払わないといけないのですが、その代金に当たるのが菩提心です。

出離と空性を理解する智慧があれば、解脱を得ることはできます。しかし、仏の境地を得るためには、母である一切衆生に対して分け隔てすることなく慈しみの心を持ち、菩提心を起さなければなりません。密教では自身を神や仏として観想しますが、その際も菩提心がなければ意味がありません。今生で即身成仏するためには、必ず智慧と菩提心が必要なのです。

以上のような理由からこの三つの要訣が必要なことがわかりました。三つが揃った上で善を積めば、仏となることは間違いありません。反対に、どれか一つだけ揃っていても仏とはなれません。

巡礼をするにせよ、お経を読むにせよ、何か行いをするときは、その動機が重要です。もし、一切衆生のことを考え、全ての生き物が苦しみから離れられるように供養や礼拝をしようと考えたならば、仏となるための原因となります。ある人は、寺で供養の儀式などを頼む時に、「あの人が不幸になって、私が幸せになるように」といった動機を持っていることがありますが、これでは自他ともに利益がなく単に金を失うだけです。初めて仏教を学ぶ人は、広い考えを持ち、全ての生き物のことを考えることは難しいかもしれませんが、何度も考えて動機を正しく持つことにより、考え方が徐々に大きくなって福徳も増えていくことでしょう。

至尊大師たちを頂礼せん

これは仏となる福徳が芽吹くための種を蒔いてくれた恩人であるラマに対する礼拝を意味します。ここでは至尊大師とありますが、他の仏などに礼拝しないというわけではなく、「ラマに礼拝する」という言葉に僧宝や仏に礼拝することもまとめられているのです。

①勝者の教説の核心の義
②勝子たちが称讃する道
③賢劫な解脱を求める者の門
これを可能な限り説明しよう

これには説明の仕方が色々ありますが、①②③がそれぞれ出離、菩提心、空性を理解する智慧に対応しているとする考え方がまず一つあります。しかし「勝者の教説の核心の義」が小士に対応するのは難しいということで、①②③を順に空性を理解する智慧、菩提心、出離に対応しているとする考え方もあります。また、①②③のそれぞれが三要訣の3つともに対応しているという考え方もあります。
仏や勝者の教えは全て、所化が仏の境地を得られるようにとの目的で説かれました。その道はたくさん説かれましたが、この三要訣の三つにまとまらない教えはないのです。そのため、これが「道の要訣」と呼ばれるのです。

有の楽を貪ることなく
有暇具足の活用に励み
勝者の歓ぶ道へと意を決した
賢劫の者よ 素直に聴き給え

これも明記はされていませんが、①②③の順に小士、中士、大士に対応していると考えます。そのため、①の「有」は今生の幸せのみを考えてはならない、という意味に取れます。「有」とは一般に輪廻のことを意味しますが、ここでは小士に対しての言葉と考えるならば、輪廻全体を否定しているのではなく、「来世のことを考えて今生だけに執着してはならない」という意味と考えられます。まず有の中の楽と思われているものが、本当は苦しみであることを理解することが必要です。楽と思っている限り、そこから逃れたいという思いは起こってきません。苦しみとは苦苦、壊苦、行苦の三つがあります。痛みなどの苦苦は人間だけではなく、家畜などにもあります。また壊苦は外道も認めています。荒い煩悩を断じて三昧の第四禅までは外道でもいくことができます。しかし、彼らは三昧の状態にはあっても、有の全てを見通してはいません。それは行苦を見ていないからです。行苦とは五蘊のことですが、五蘊が業と煩悩によって作られたものである限り苦しみなのです。

地蔵堂

(再建された安楽寺の地蔵堂前にて)

以上が5月9日に行われた法話会の内容でした。次回は6月20日です。

近畿定例法話会レポート

 


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