2015.03.20

仏教者としてのスタート地点

そろそろ花粉の飛散する季節となりました。花粉症が日本以外の国にもあるのかどうかわかりませんが、海外の方も日本にきて花粉症の症状がでることがあるようです。各言うロサン・プンツォ先生も来日して10年近く経った頃から、花粉症の症状が出始めたそうです。花粉症にならないように気をつけようもないですが、発病する人がこれ以上増えないことを祈るばかりです。

今回は帰依についての説法の最終回でした。

これまで帰依について、帰依の原因と対象、そしてどのように帰依するか具体的な方法などを学んできました。「帰依をする」と言っても、その対象に帰依してもいいのかをまずは考えなければなりません。学校で先生に教えてもらう時に、その先生が自分の知らないことを知った上で、ちゃんと教えることが出来るのかどうか確認しないといけないのと同じように、仏法僧に帰依してもいいのか、これらは自分の苦しみを取り除いてくれるのかどうか、よく考える必要があります。何も知らないままで、単に「帰依します」言うのではなく、帰依する前に分析しなければなりません。

釈尊は「私が教師であり、完璧な人間であるから、私に帰依しなさい」と語られたわけではありません。「焼いて切って磨いて金かどうかを調べるのと同じように、まずは私の言ったことを観察しなさい」とおっしゃったのです。帰依することによって利益があるのかどうかを考え、分析した上で帰依するのです。

「もし私の言っていることを聞いて、経と間違っているならば、『違っている』と言ってください。それによってお互いのためになります。私ももう一度見直してみますし、自分が間違っていたことが正せてありがたいです」

と、チャンパ先生は笑いながらおっしゃいました。

ダライ・ラマ法王もいつも「勉強しなさい」と人々に語っておられます。チベットでは「ラマ」だというだけで帰依する人たちが多くいますが、その人が優しく、経験を有しているかどうかなど、「ラマ」としての条件をちゃんと備えているかどうか分析することが必要です。揃っているならば頼ればいいですし、違うならば頼ってはいけません。

釈尊は最初の心の起こし方、進む道、得られる結果を順に説かれています。釈尊がおっしゃっている通りに行った方が良いのか悪いのかをよく考えることによって、しっかりとした智慧を伴った帰依となるのです。そうではなく考えなしの帰依であったならば、他人に「それはよくないよ」と言われただけで、心揺れてしまうのです。

仏宝に対してなすべきこと

チベットや日本では仏壇のある家が多いと思います。仏像や仏画を安置する際に、「これは金で出来ているから上に置こう」と考えたり、反対に「これは木造だから下に置こう」などという風に考えてはいけません。どんな材料で出来ていたとしても、仏像や仏画は、自分が輪廻から逃れるための拠り所であると考えましょう。

もしかすると、「仏像は実際に法を説いてくれないじゃないか」と思うかもしれません。「寺などにも沢山の仏像があるけれど、実際に法を説いている姿を見たことなんか無い」と。しかし、それは向こうが法を説いてくれないのではなく、聞く側の私たちの問題で、言葉を聞くことが出来ないだけなのです。十地を歩む聖者や菩薩たちは実際に、法を聴聞することができるのです。では、なぜ私たちは聞くことができないのかと言うと、業が清まっていないからです。

こんな話があります。インドの偉大な学者であったアサンガはずっと弥勒のことを観想していました。籠って瞑想修行をしていましたが、いっこうに弥勒は現れてくれません。ある日アサンガは「もうダメだ」と心折れて、瞑想をやめてしまいました。斯くして外に出ると、一人の男が鉄を地面にこすりつけていました。「何をしているんですか?」とアサンガが聞くと、男は「鉄を削って、針を作っているんです」と答えました。これを聞いてアサンガは、「私はこの男に比べれば全然努力していない。修行に戻ろう」と心を入れ替えて、瞑想に戻りました。暫く修行を続けましたが、やっぱり成果が出ないため、アサンガは再び心折れて瞑想をやめようとしました。すると一人の男が踊りを踊っていました。「何をしているんですか?」と聞くと、「地面を踏み固めて道を作っているんです」と答えました。これを聞いてアサンガは再び心を奮い起こして修行に戻りました。しかし、いくら弥勒を観想しても、成果はあがりません。「今度ばかりはもうダメだ」と思ったアサンガは修行をやめる決心をして外に出ました。すると、そこには傷だらけの犬が横たわっていました。見ると傷口にたくさんのウジ虫が集まり、犬の地肉をすすっていました。それを見たアサンガは「犬を助けたいが、手で摘むとウジ虫を殺してしまう…」と考えて、四つん這いになり、自分の舌で嘗めてウジ虫を取り除こうとしました。するとその瞬間、アサンガの前に弥勒が現れたのです。弥勒を目にしたアサンガは、「どうして今まで現れてくださらなかったのですか!?」と言って弥勒をなじりましたが、弥勒は「私は最初からあなたの側にいたのに、あなたが気づかなかったのです」と答えたそうです。その後、瀕死の犬を抱え上げて歓喜しているアサンガを見た他の人々は、「アサンガが狂ってしまった」と考えました。彼らは業が清まっていないため、弥勒の姿が見えなかったのです。そして、アサンガは弥勒から法を聴聞して、著作を書き残しました。

また、チベットの民間にはこんな話があります。ある男がいました。彼はいつもターラー菩薩を観想し、真言を唱えていました。しかし彼はとても貧しかったため、彼のことを哀れに思われたターラー菩薩は、彼に金を与えようと、橋の真ん中に金を置いて橋を渡ってくる彼に拾わせようとされました。その男が果たして道を歩いて橋の袂にさしかかったとき、ふと「自分は今まで目をつぶって橋を渡ったことがない。今日はひとつ目を閉じて渡ってみよう」と考えて、金の横を眼を閉じて素通りしてしまいました。仏や菩薩の慈悲が偉大であろうとも、自身の業が清まっていなければ、このようになってしまうのです。

法宝に対してなすべきこと

法宝は四聖諦のうち滅諦と道諦のことです。ですが、それ以外の釈尊の説かれた教えである経典などをぞんざいに扱ってはいけません。最初から滅諦や道諦が得られるわけではなく、まずは法を聴聞し、それを考えて、徐々になれていく必要があります。ですので、他の経典などもとても大切に扱いましょう。チベットなどでは、版木で作られた伝統的な経典ならば大切にするのに、洋装本になった経典については低く見てしまう傾向があります。本の形状の方が勉強の際には便利ですが、だからといってむやみやたらと床の上に置いたりはせずに、大切にしましょう。

僧宝に対してなすべきこと

僧宝に帰依するならば、僧の僧衣を見ただけでも尊敬する必要があります。僧宝と言うときの僧とは一般の僧侶のことではなく、聖者のことを指します。業と煩悩に引きずられることがなく、輪廻を超えた方々です。だからといって一般の僧侶を低く見ていいわけではありません。一般の僧侶であっても4人集まれば僧伽と呼ばれ、仮に聖者と同じと考えられます。僧伽であることは大切で、布薩などの時でも僧侶が4人集まらなければ行なうことが出来ません。昔の人は、お坊さんの僧衣を見ただけで、仏様の僧衣と同じと考えて大切に扱いましたが、今の寺の中では、古くなった僧衣は捨てられてしまいます。

また、相手と自分とを分けて考え、相手を見下すようなことはしてはいけません。私は仏教徒だが、あの人はイスラム教徒だという風に差別して考えるのはよくありません。チベットの仏教にニンマ派、カギュー派、サキャ派、ゲルク派というように多くの宗派があるように日本にも真言宗、臨済宗、浄土宗、浄土真宗などといろいろな宗派があります。これらの宗派はみな等しく衆生利益のために頑張っているんだと考え、どれかの宗派を見下したりしてはいけません。得てして自分の側が勝っている理由、相手の側が劣っている理由を考えることなく、私と相手という風に分けて傲慢になっていることが多いです。

ダライ・ラマ法王もおっしゃておられる通り、イスラム教にしろキリスト教にしろヒンドゥー教にしろ、人を大切にして害してはならないと説かれている点は同じです。私が幸せを求めているのと同じように、他の生き物もまた幸せを求めています。今生での母の恩を思い、恩に報いようと考えるのと同じように、全ての生き物の恩に報いようと考えましょう。どんな生き物であれ、長い輪廻の中で自分の母親に生まれ変わったことのない生き物はいないのですから。

次に、仏宝・法宝・僧宝に対して共通してなすべきことは、

①帰依の諸々の区別を何度も明らかにして、定義のそろった帰依に慣れるようにする
②何を食べ、何を飲んでも捧げて供養する
③〔三宝〕の福徳と恩を思い、目にしたならば、他の衆生たちも苦しみから逃れるようにと思う悲の愛で、帰依に入るように出来る限りのことをする
④どんな行いをしても、何のためでも仏に依る
⑤先に説かれた諸々の福徳を考えて、昼夜6回帰依する
⑥命のためであっても帰依を捨てない

の6つです。

①帰依の諸々の区別を何度も明らかにして、定義のそろった帰依に慣れるようにする

これまで、帰依の原因、対象、やり方などを学んできましたが、仏法僧の福徳を何度も思い返しましょう。私たちは少し考えてこれは良い、これは悪いというように偏って考えますが、仏はそのようなことはありません。全ての生き物に対して等しく平等に愛を持っています。今、たまたまこの人を愛している、というようなものではありません。仏のお考えというものは決してぶれることはないのです。身体は三十二相八十種好という優れた特徴を備え、言葉は雷の如くでありながら柔和で耳障りがよく、心は平等で偏りがありません。法宝は無我を理解する智慧です。私たちは我執によって他者を見下したりしますが、これは何から起こるのかといえば無明によってです。ではこの無明を取り除くことができるのは何かといえば智慧によってに他なりません。我執の対治は無我を知る智慧です。我々が考えているようには我というものは存在しないのです。このことを理解する智慧があれば、悪業を積むこともなく、五道を順に進むことができます。苦の原因となる業を積むことがなければ、果を得ることもありません。そうなれば悪業を積まないため、輪廻で悪趣に落ちる原因を作ることはありません。僧宝はいわば友人のような存在です。私たちと共に仏となる道を歩んでくれます。

②何を食べ、何を飲んでも捧げて供養する

人は大概日に3度食事をしますが、食事のたびに仏を思って供養しましょう。努力することなく簡単に資糧を積むことができます。食べ物を供養するのも私1人で行なったと考えるのではなく、一切衆生と一緒に行なったと考え全ての生き物が仏様から加持いただいたと考えましょう。自分だけで供養すれば1人だけですが、一切衆生には限りがないため、いただく功徳も限りなくなるのです。

③〔三宝〕の福徳と恩を思い、目にしたならば、他の衆生たちも苦しみから逃れるようにと思う悲の愛で、帰依に入るように出来る限りのことをする

慈悲や愛を持つことによって、自身の怒りも小さくなります。何を行なっても仏様のおかげであると考え、他の生き物も私と同じように帰依していると考えることによって、怒りが鎮まります。

④どんな行いをしても、何のためでも仏に依る

私たちは得てして、何かことを成した場合は自分自身の力だけで成し遂げたと考え、反対に上手くいかない場合には他人や神といった存在が私の邪魔をしたから失敗したと考えて、その失敗が自分の無知から起こったものだとは考えません。そうではなく、どのような行いをしても仏様は知っておられると考えましょう。もし何か病気にかかったならば、「これはこれまで私が積んできた悪い業の果だ。私の無明から生じたのだ。私の悪業が清まるように」と考えましょう。中には「三宝に帰依しても何もならない。薬を飲むべきだ」と言う人もいますが、三法に帰依して長寿祈願などをすることによって改善するという不可思議なことはあります。また怒りといった感情も、三宝に帰依することによって鎮めることができます。

⑤先に説かれた諸々の福徳を考えて、昼夜6回帰依する

帰依を朝3回夜3回行なうべきだと説かれますが、特にこの時にしなければならないという決まりはありません。朝起きてすぐでもいいし、電車やバスでの移動中などでも大丈夫です。時間のある時におこないましょう。チベットの人々は、おしゃべりの途中でいきなり帰依を唱えたりします。

⑥命のためであっても帰依を捨てない

帰依を捨て誓いを捨ててしまうと、後々大変です。帰依があろうともなくとも人が死ぬのは一緒ですが、帰依を捨てて死んでしまうと死後の来世で捨ててしまった果として長く苦しみを味あわなければなりません。帰依の戒律を捨てると1000万回輪廻を繰り返さなければならないと説かれます。金や財産のためでも帰依を捨ててはいけません。また冗談で他の人を笑わせるためであっても「三宝は悪い」などと言って帰依を捨てるようなことをしてはいけません。

「帰依は仏教の入り口です。仏教徒であるかどうかは帰依にかかっています。たくさんの経に説かれた教えの中心です。帰依することによって生が無意味なものになることはなくなります。仏、菩薩、独覚、声聞といった境地を得られるようになるのです」

以上が3月14日に行なわれた説法の内容でした。「帰依」については一段落しましたので、次回4月18日からはツォンカパの「道の三要訣」を勉強する予定です。

 


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