やっと梅雨が明けましたが、法話会の時は、梅雨まっただ中だった京都。当日も曇り空で、朝は雨がぱらぱらと降っていましたが、説法が始まる頃にはあがりました。7月の京都といえば祇園祭!バスの乗客も普段より多く、道も渋滞していました。
今回の説法は、帰依についてでした。チャンパ先生と相談したところ、仏教を勉強する上で、帰依はとても重要だからということで、今回から三回程続けて帰依について説法していただくことになりました。
仏教に入門する入り口は、見解などによっていろいろ別れますが、仏教徒であるかどうかが決まるのは、「帰依」によってです。両親が仏教徒だから、生まれた地域の人々が一般に仏教を信仰しているからという理由で自分も仏教徒だと思っている人は多いですが、実はそうではありません。
仏教徒であるためには「帰依」が必要ですが、一言に帰依といってもその対象はたくさん考えられます。しかし仏教徒の場合、帰依の対象は「三宝」です。仏教徒であるためには帰依がその入り口となりますが、同様に密教に入るためには灌頂が、大乗に入るためには菩提心がその入り口となります。
「帰依の理由」
そもそも、どうして私たちは三宝に帰依するのでしょうか?
私たち人間を含め、全ての生き物は苦しみから逃れたいと思っています。しかし、輪廻する限り、我々は苦しみの中です。そのことを、まずは自身で理解する必要があります。輪廻が苦しみであるとわかれば、そこから逃れたいという思いが生じ、助けを求めるがゆえに帰依するのです。
輪廻が苦しみであるといっても、その苦しみは時々にしか起こらないと考えるかもしれません。しかし、仏教では苦しみを三つに分けて考えます。一つ目は「苦苦」。これは地獄、餓鬼、畜生といった三悪趣の苦しみや、病気になったときに味わうような苦しみです。二つ目の苦は「壊苦(えく)」。暑さも一つの苦しみですよ?暑さに苦しんでいる時に涼しさを感じると、心地よさを感じます。しかしこの楽は、どんなに長く続こうとも、永遠には続きません。このように、変わってしまうものが壊苦です。最後の「行苦」ですが、これは五蘊の苦しみです。なぜ五蘊が苦しみであるかというと、業と煩悩の結果であるからです。
釈尊は三転法輪のうち、バラナシで初めて説法された初転法輪において、四聖諦を説かれましたが、その中でまず「苦を知れ」と説かれました。この苦とは、先ほどの三苦のことです。輪廻の中のこの苦しみという真実を知ることによって、そこから逃れたいという思いが生じてきます。ですからまずは、苦しみを知りなさいと説かれたのです。六道輪廻のうち三悪趣はもちろんのこと、神々であっても業が尽きれば必ず死にます。そしてその際に、酷い苦しみを味わいます。
「苦しみは必要ない。楽であればいいのに」と思う出離の念によって、帰依するのです。ですので、まずは輪廻の苦しみを知り、そこから逃れたいと思う、帰依の理由が必要なのです。
そしてその上で、輪廻を恐れ、「三法を信じる」という因が必要です。
「帰依の対象」
次に、帰依する対象を考えてみましょう。帰依する対象として、仏や慈悲心などいろいろ考えられますが、解脱を中心に考えますと、必ず仏・法・僧の三法に帰依する必要があります。この仏・法・僧は譬えるならば、医者と薬と看護士のような存在です。私たちが何か重病を患ったとき、その病を治すためには、病を熟知している医者に頼る必要があります。そして医者の処方してくれた薬を飲みますが、その時薬をもらうだけではなく、治る手助けをしてくれる看護士が必要です。私たちは今、輪廻の苦しみの中にいます。その苦しみから逃れるためには、輪廻のありようを知っておられる「仏」に依る必要があります。そして輪廻から逃れるために仏が説かれた「法」に依りますが、その時に手助けをしてくれる看護士のような存在が「僧」なのです。
では、帰依の対象それぞれを考えてみましょう。
「仏」は、まず、一切智者であり、輪廻の一切から解き放たれた上で、解脱の道を示すことに長けている方です。また、全ての生き物に対して平等であり、大悲を有し、能力のある方です。智慧、方便、そして能力を具えている必要があります。
「法」は滅諦と道諦のことです。五道のうち、資糧道と加行道は道諦そのものではありません。道諦の本体は、見道、修道、無学道のことです。
そして「僧」とは、この五道のうち見道以上の聖者のことです。
このように三法とはどのようなものであるかを理解して帰依する必要があります。帰依についてこんな話があります。あるとき、ダライ・ラマ法王がインド北部のラダックを訪問された時のことです。遊牧民のところでヨーグルトやバターを召し上がられていたとき、法王はふと、ラダックの人々に対して、
「あなたたちは仏教徒ですよね?」
と質問されたそうです。人々は、「はい」と答えました。すると法王は再び、
「仏教徒とは、どんな人ですか?」
と尋ねられました。人々は、「仏法僧に帰依する人です」と答えました。すると法王は「その通りです」とおっしゃり、
「では、仏法僧とは何ですか?」
と質問されました。これに対してラダックの人々は、「わかりません」と答えたため、法王は「それではいけません。ちゃんと理解してください」と、人々を諭されたそうです。この話からもわかるように、三法が一体何であるか、その違いを知っている必要があります。
両親が仏教徒という理由だけでは、仏教徒にはなりありません。仏教徒の家庭に生まれても、キリスト教徒やイスラム教徒に改宗する者もいます。また最近では、親がキリスト教徒であっても、子どもが仏教徒になる場合もあります。仏法僧の福徳を知って、信仰する必要があるのです。五体投地や供養など、自分がどんな行いをしようとも、仏が知っておられると心の底から考えて行いましょう。
「大乗の帰依」
さて、一言に帰依と言っても、大乗と小乗とではその行い方が違います。今生の楽だけを考えて帰依する人、自分だけが解脱するために帰依する人、自分だけではなく一切衆生のために解脱を得ようと考えて帰依する人です。小乗の人は、今生の楽だけを考え、真言や経を唱えて、阿羅漢の境地を得たいと考えます。一方で大乗の人は、一切衆生のことを考えます。この両者は「思い」が違います。一切衆生は数限りがありません。すると、それに対する祈りも数限りがありませんので、善行をおこなっても広くおこなうことができるのです。
「利他心」によって、広く善業を積むことができますが、これはなにも来世のために限ったことではありません。今生において、どんな仕事に携わっていたとしても利他心を持って行うことによって、自身にも利益があるのです。例えば、商人が自分だけではなく、他の人々のことを考えて商売したとします。すると、人々は「この人は正直で嘘をつかない人だ」と信頼して、その店をよく訪れるようになります。反対に自分のことだけ考え、安いものを高く売ったならどうなるでしょう?そんな店で、買い物をしませんね。商人に限らず、料理人であっても、先生であっても同じです。利他の行いをすれば、今生でも楽が得られます。しかし反対に、自分のことだけ考えていては、楽は決して得られません。
また、利他心をもっていれば、苦しみと楽、どちらが起こっても大丈夫です。例えば、自分が何か重病を患ったとします。病によって、自分はひどい苦しみを受けます。しかしこの時、自分だけではなく他の生き物にも苦しみがあることに思いを巡らせます。もし、他の生き物が自分と同じ病にかかったとしても、自分と同じように苦しむだろう。ならば、一切衆生の苦しみを私がが引き受けるので、代わりに他の生き物に苦しみが来ないようにと祈ります。このように考えても、自分が重病によって受けている苦しみ自体は同じですが、しかし、心が変わります。
利他の修行として「トン(与える)レン(受け取る)」があります。これは、一切衆生、初まりのない長い輪廻の中で、自身の母となったことが必ずある全ての生き物の苦しみを、自身が引き受けようと考え、反対に、自分が何か楽しみや楽を受けたならば、この楽を一切衆生に与えようと考える修行です。苦しみは自分が引き受け、楽は他に施す。私たちは必ず何かしらの苦しみを受けますが、その苦しみを受けるのは一切衆生のためだと考えることによって、心にとても益があります。
結局の所、執着によって生じた楽は、長くは続きません。それぞれの人が利他心を持ち、他の生き物のことを考えることが出来れば、他人に対して正直になれますね。そうすれば、家庭も平和になり、国も平和になり、世界中が素晴らしいものになっていくでしょうう。利他心があれば、自分だけよければいいという考えには、決してならないのです。
このように利他というものは、世俗の生活にも適ったものであります。どうぞみなさん、両親や病気の人をよく助けてあげてください。どれだけ他人を手伝っても、未来にくるのは楽だけです。自分自身が親を大切にすれば、その姿を見た自分の子どもも、将来自分を大切にしてくれるでしょう。反対に、今親を蔑ろにしていながら、将来子どもが自分を大切にしてくれることを期待するのは難しいことです。
三法のうち、仏とは所知障と煩悩障を断じた方です。煩悩障とは解脱をするのを邪魔するもので、これを断じれば解脱することができます。一方、所知障とは、輪廻を返す行程である十二縁起を断ち切る智慧がなければ断ずることができません。この二障を断じた方が仏なのです。また、法には一時的な法と究極的な法とがありますが、究極的な法とは滅諦と道諦です。そして、それらが相続に生じている人が僧なのです。
これらは、初めて学ぶ時は難しいかもしれません。ですが、言葉だけでも覚えておいてください。そうすれば、これから帰依について学ぶに連れて、同じ言葉が出てきます。すると、「ああ、あの時聞いたことがある」と思って、思い返すことができるでしょう。
以上のような説法の後、帰依についての簡単な問答をして今回の説法は終わりました。次回の説法は9月6日です。