2011.09.16

ダライ・ラマ法王の御引退とチベットの最新状況

bTibet Xでダライ・ラマ法王日本代表部事務所のラクパ・ツォコ代表にダライ・ラマ法王の御引退とチベットの最新状況を伺った際のシンポジウムのテキストを公開しました。

2011.6.17 bTibet XI Spring Tokyo 於:大本山護国寺 忠霊堂
語り手:ラクパ・ツォコ代表(ダライ・ラマ法王日本代表部事務所)
聞き手:野村正次郎(弊会事務局長)

チベット問題の今年前半の動向と趣旨説明

野村正次郎(以下、N):
bTibetは4年目を迎えました。「bTibet」の「b」には「チベットである(be)」という意味を込めています。チベット人にとって、「チベットである」「チベット人である」ということは、重要な意味をもちます。しかし、今もチベット本土では、中国政府による「チベット人である」ことへの弾圧が続いています。そしてチベット人たちが「自分たちがチベット人である」ということのために、いまも戦いを続けています。

2008年3月にチベットで大規模なデモがあり、日本でもチベット支援者は一気に増えることとなりました。しかしそもそも「ダライ・ラマ法王は一体何をもとめているのか」「チベット人は一体どうしたいのか」「彼らが守ろうとしているチベット仏教とその文化というものは一体どんなものなのか」ということについては意外と知られていません。MMBAではこうした状況もあり、護国寺さまのご協力のもと、チベットの人たちがいったいこうしたテーマについてどう考えているのか、ということの話を直接チベットの方たちから聞ける機会を提供したいということでこの「bTibet」というイベントを定期的に行っています。

今年は東日本大震災などがあり、いろいろ大変でしたが、チベットの状況を大きく変えるような事件がありました。それは「ダライ・ラマの政権委譲」です。今回はこれをテーマにチベット政府を代表されるラクパ・ツォコ代表にお話を伺いたいと思います。

今年の3月10日、ダライ・ラマ法王は引退するという声明を発表されました。翌日、法王は議会に「政権を委譲する」という文書を提示されましたが、差し戻されました。しかし「チベットの政権を民主化したい」という、法王の意志は固いようです。

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法王はこの件について、4月にこちらの護国寺で、東日本大震災の四十九日の法要を執り行われた際に、記者会見でお話しされました。しかしながら、日本では、あまり大きく取り上げられていません。また、ニュースでは「ダライ・ラマの後継者の問題」と扱われましたが、それも少し違います。歴史的なダライ・ラマの地位がわからないと、難しい内容だと思います。今日は、ダライ・ラマ法王日本代表部事務所のラクパ・ツォコ代表から、今回の法王の引退声明について、経緯の簡単な説明をしていただきます。

引退声明の背景—民主化を進めてきたチベット亡命政府

ラクパ・ツォコ代表:

チベットの政府は、正式には「ガンデンポタン政府」といいます。1959年頃から、英語では「Central Tibetan Administration」と表記し、チベット語では「チベット亡命政府」としてきました。この「ガンデンポタン政府」は、ダライ・ラマ法王が、政治と宗教の両方の指導者です。ダライ・ラマ5世から現在の14世まで、約400年の歴史があります。今回のご発言で、法王は「政治と宗教を分ける」と表明されています。

本日の参加者は、チベットに興味があると思いますが、法王がインドに亡命してからの経緯をご存知ない方も多いのではないでしょうか。法王は、以前から改革と民主化を進めておられます。今回は、その施策の一つである「主席(カロン・ティパ:チベット亡命政権内閣主席大臣)の選挙」を機会に、政権を委譲したことになります。

チベットは、2000年以上の歴史がある国です。しかし、現在多くのチベット人が、故郷を離れ、インドに亡命せざるを得ない状況に置かれています。

第二次世界大戦で、日本と周辺諸国が混乱していた頃、チベットは平和でした。1949年に、国民党から共産党に変わった中国政府が、チベットを侵略しにきました。1949年から1959年にかけて、チベット政府は、関係悪化を防ごうと努力しました。しかし、59年には、法王はじめ多くのチベット人が、亡命せざるを得ない状況に陥りました。

亡命したチベット人たちは、1959年から1979年まで、衣食住を確保する努力をしました。この間、チベット本土と亡命チベット人は、全く連絡がとれませんでした。チベット本土では、120万人のチベット人が、収容所などで命を落としました。亡命先のインドでも、寒い土地から暑い土地へ急に移り住んだことで、さまざまな病気になったりして、多くの人が命を落としてしまいました。亡命生活が長引いたこともあり、亡命先のインドでは、インド政府から提供された土地に「亡命チベット人居留区」というものができることになったのです。

最初は単なる荒れ地だった場所に、森を切り開いて、しばらくはこのインドの地で亡命チベット人たちが暮らして、少なくともチベット文化の保存をしながら、生活をするためにキャンプが作られたのです。ここでも多くの人が、ヘビやゾウなどによって、命を落としました。しかし、1970年代終盤には、インド政府や国際的な援助のおかげで、生活が落ち着きました。それからは、将来を見すえて、「教育と生活基盤の確立」と、「チベットの文化を守ること」に力を入れ、一定の成果をあげました。

一方ではそのような厳しい状況の中で、ダライ・ラマ法王はチベットに居られた時代に押し進めようとしていた民主化への道を更に推進し、亡命チベット政権の内閣と国会を作られました。1963年には、国会を通じて憲章が公布されました。これは、将来的にチベットに戻った時に、チベット人が目指す規範として作成されました。1991年には、この憲章とは別に、亡命先での民主主義のルールとして「亡命チベット人憲章」が制定されました。

今回の法王のご引退は、こうした民主化改革の流れのひとつですし、突然に起こったことではありません。私たち亡命チベット人はインドという自由な国に亡命して以来こうしたことをずっと行ってきたのです。そして今回の法王のご引退があるという流れです。

N: ラクパ代表は以前デリーの事務局長をされていた時に、現主席(注:2011年6月現在)のサムドン・リンポチェと大変親しくされていたと伺っておりますが、サムドン・リンポチェははじめていわゆる「国民投票」のようなものをやって直接選挙で選ばれた主席大臣ですが、その時の様子をすこし教えてください。

私の日本での生活は想像しなかった程長いものになりましたが、一度デリーの事務所に任命されて、そこの代表事務所を訪れたサムドン・リンポチェとよくご一緒していました。

サムドン・リンポチェより前の主席大臣は、ダライ・ラマ法王の指名で決められていましたが、2001年からは選挙が行われています。2006年にも選挙があって、サムドン・リンポチェは2期目をつとめています。次の8月には、3回目の選挙で選ばれた、ロブサン・センゲ氏が主席大臣に就任します。

こういった国民全体が選挙で選出した主席大臣を行政の長とするようになってから、ダライ・ラマ法王は何度も今も「自分は半分引退した状態(セミリタイア)」だとおっしゃってきました。実際に、行政関係の業務は、すべて主席大臣に任せられています。しかし、今回ダライ・ラマ法王が完全に政権を委譲する、ということは、つい最近まで、任命書へのサインなどをなされていたが、そういった仕事も、今後は全て民主的に選ばれた主席大臣に任せたいとのご意向です。

これはこれまで400年あまり続いてきた「政治と宗教の最高指導者であるダライ・ラマ」という制度を廃止して、「ダライ・ラマ」を初代から第4代までの単なる宗教的な指導者であるダライ・ラマという位置づけへと移行するということを表しています。

ダライ・ラマ法王の今後の役割

こうしたダライ・ラマ制度それ自体に対する変化があることもあり、法王はこのことに関連して亡命チベット人憲章を改訂するための総会を召集され、今年3月の「第2回全チベット人総会」では、様々な議論がありました。総会の決議として、ダライ・ラマ法王に「政治的な権限を、今までと同じように続けてほしい」と要請しましたが、断られました。法王は、今回の政権委譲は、色々と調べて、専門家に相談し、また目で見える人間の社会だけでなく、神々たちにも伺った、ご自身にしかできない決断なので、心配することはないとおっしゃいました。

さらに、イギリスの王室や日本の皇室のような、象徴的な立場になることも断られました。ただし、「チベット人のスポークスマンとしての責任を引き続き持っていただきたい」という要請は受け入れられました。

N: 中国政府は、今までチベット亡命政府を認めず、「法王の私設代表」と話をすると言っていました。それに対して法王は、「チベット人の代表である」という立場を表明してきました。法王が引退されることによって、世界はチベット人を代表している「チベット中央行政機構」(CTA)を認めざるを得なくなります。また、中国政府も、法王に全ての責任を押し付けることができなくなります。新しいダライ・ラマ法王を適当に擁立することもできません。ニュースを見ていると、チベット人はがっくりしているようでしたが…。こういった効果については代表はどのように思われますか。

ダラムサラでの説法会の後に、チベット人に向けて、わかりやすい趣旨のご説明がありました。

参照:完全なる民主主義の実現のために~ダライ・ラマの政治権限の無効化についてのダライ・ラマ法王談話

「自由な社会に住んでいるチベット人より、中国の中のチベット人の方がもっと心配をしています。彼らは詳しいことを知る方法がありません。ダライ・ラマとしての役目が必要であれば、私はいつでもそばにいます。

私は、逃げたり、力がなくなって、責任を譲ったわけではありません。むしろ私が元気な間に、亡命政権は今まで通り、チベットの将来のために、自立を目指して成長してほしいのです。そのためのいいタイミングなので安心してください」

N: ラクパさんは、法王の今回の引退声明のタイミングをどう思われましたか?

いいタイミングだと思いました。

また、新しい主席大臣は若くエネルギッシュで、国際社会のこともよく知っておられます。従来のように僧侶の中だけではなくて、俗人からやる気のある主席大臣が誕生したことは、よいことだと思います。

確かに大きな課題ではありますが、私はそれほど心配をしていません。

新しい体制の元で進む民主化の道

N: 今後、新しい主席大臣の任期の5年間、または10年間で、どのような変化があると期待していますか?

2011年5月29日に、ダライ・ラマ法王のガンデンポタン政府での責任はピリオドを打ちました。8月8日にダラムサラで行われる主席大臣の就任式の後に、いろいろ変わってくると思います。

今まで、私たちチベット人は法王に頼りきっていた面があります。誰しもが「ダライ・ラマ法王は観音菩薩なのでいつかきっとなんとかしてくださる」といった期待をして怠けていた部分も多かったと思います。ですが、これからは、新しいロブサン・センゲ政権と、その下で働く人たちには、重い課題と責任がのしかかりますし、私たちチベット人がひとりひとり自分たちのチベットの問題について取組まなければならないのです。

一般的に民主主義は、犠牲を払ってでも勝ちとらなければいけないものです。法王はよろこんで自ら権限を委譲されたのです。当分の間この状態になれるまでに少々チベット人のなかでの戸惑いが続くでしょうが、チベット人全員が努力しなければなりません。

サムドン・リンポチェは、主席大臣を10年間つとめられましたが、その前に10年間、議会の議長もつとめられました。さらに、民主主義の議会の基盤に続き、行政関係のルール、特に金銭関係について厳しく作られました。

N: サムドン・リンポチェが作られた土台の上に、民主化への動きが、本当の意味で始まるということでしょうか?

そうです。今回の法王の決定によって、民主主義がさらに発展することは間違いありません。また、チベット問題についてもさらに活発に取り組むことになると思います。

新しい主席大臣は、法王がイニシアチブをもって作られた「中道のアプローチ」をさらに進めたいと表明しています。

「中道のアプローチ」の継続に向けて

「中道のアプローチ」について説明をお願いします。

1979年に亡命政府の姿勢は「中道のアプローチ」に変わりました。それ以前の59~79年、亡命政権の目標は「独立を復活すること」でした。

「中道のアプローチ」は法王ご自身が67、68年頃から、亡命政権の議長・副議長・内閣、世界中の学者に相談して、議論して作られたものです。

「中道のアプローチ」は両極端の道を避けて、真ん中の道をとるという政策です。

一つ目の道は、中国からの独立です。私たちチベット人には「独立」を主張する権利がありますが、様々な情勢をかんがみると、「独立」を持ち出すと中国との交渉ができないと判断しました。

二つ目の道は、現在のチベット「自治区」には中身がなく、全ての実権は中国政府にあるという現状です。

法王は、中国が交渉の席に着くよう、チベットと中国政府、双方に有益となる政策を考えました。

具体的には、自治区・自治州などに分断されている、旧来のチベットの3つの地域を一つの行政区分にすること。そして、外交と防衛は中国政府に任せて、そのほかの環境・教育・文化などはチベットに任せるという「真の自治」の提案です。

N: チベット側は、この「中道のアプローチ」をもって、何度か話し合いを試みましたね。

ダライ・ラマ法王は、中国政府に対して、1979年から2008年まで特使を送り、建設的な話し合いを試みました。チベット側は100%真剣でしたが、中国側はパフォーマンスをするだけで、具体的な成果は得られませんでした。

このように厳しい状況で、時間はかかりますが、チベットは「中道のアプローチ」のポリシーを貫いていきます。

法王は、外国人記者クラブで「中道のアプローチ」の政策は、ある意味失敗だったと発言されました。確かに、今は成果が得られていませんが、世界中の国での評価・理解は高く、支援の声も多いのです。

特に中国の知識人の間でも評価が高く、800~900の論文があります。これらは、中国語から英語の訳を進めているので、将来的に本にしたいと思っています。

N: 「中道のアプローチ」でいう「真の自治」とは、香港のような「特別行政区」を指しているのでしょうか?

香港に似ているところがあるかもしれませんね。現状とは違う、「中身のある自治区」を目指しています。

1951年に中国政府が勝手に作り、印鑑を偽装して締結させた「17ヶ条協定」にも似ています。しかし、現在、中国政府はこの協定の内容を尊重していません。

日本人に求めること

N: 今後も「中道のアプローチ」を実現するため努力していくとのことですが、亡命社会や在日チベット人のみなさまは、具体的にどのようなことを私たち日本人に求めていますか?

チベットにとって、日本はアジアの中で、インドと並んで大きな存在となっています。

日本は、政府はチベットに関心はないようです。しかし、民間では、チベットへの同情心を持つ方・理解者・様々な面での援助をされている方が、大勢いらっしゃいます。日本での関心は、10年、15年前に比べるとずいぶん高くなっています。

チベットの現状を知って、チベット人と付き合って、どのような問題があるのかということを理解をすること。また、文化に興味があるといった、様々なファクターが重なって、チベットへの関心が深くなっているようです。

もっと日本で知っていただければ、より関心が集まるでしょう。時機が来れば、小さい火が大きくなるのに、時間はかからないと思います。

今は環境がまだ整っていません。まわりの国との関係、歴史上の背景、経済的な関係など、難しいことも多いと思います。

しかし、地道な活動を重ねていけば日本政府、日本国民の理解を得られる時が来ると考えて、東京事務所では努力してきました。これからも、努力は無駄にはならないと信じて、頑張っていきます。

N: この10年間で関心が高まったということですが、このような護国寺でのイベントなども、そのあらわれでしょうね。日本政府も、チベットに対して特に冷たいわけではないと思いますが…。

政府レベルとしては積極的に協力できないのは、事実ですが、仕方がないことでしょう。国益につながらないことには、なかなか目が向かない事情は理解できます。でも民間レベルではさまざまな支援をして頂いております。

また一応、日本政府も決して冷たいわけではありません。法王の来日の際にも、できるだけの対応はしていただいています。警察や空港で接する人からも、親切にしていただいています。

N: 次期主席大臣ロサン・センゲ氏の来日は考えていますか?

8月8日に正式に就任式があるので、今後来日の機会もきっとあると思います。

中国政府は、ロサン・センゲ氏を「チベット青年会議」の役員をしていたことを根拠に、「テロリスト」として扱おうとしています。しかし、彼は、法王が30年間努力されてきた「中道のアプローチ」政策を継続したいと表明していますし、「中国とチベットの両方のためになるよう交渉を進めたい」と話しています。決して中国からの分裂を求めているのではなくて、チベット人としての一体感を高めたいと思っているわけです。

N: 新しい主席大臣には、チベット人の代表としてぜひ日本にも来ていただきたいですね。現主席大臣のサムドン・リンポチェには来ていただく機会がなかったので大変残念でしたね。

サムドン・リンポチェの来日は叶わず残念でしたね。ですが任期を終えた後でもいいので、今後、改めて来日していただきたいと思っています。

これからのチベットのために—法王の後継者

中国政府は、いつも「チベット問題など存在しない、問題はダライ・ラマだけだ」と言っていますが、これは事実ではありません。

しかし、今回の政教分離で、「チベット問題」というのが確かに存在しているということがはっきり分かるはずです。

チベットに問題が存在しているからこそ、2008年に蜂起があり、最近でもキルティ僧院、カム地方のカンゼ、ニャロンなどあらゆるところでの暴動が続いています。

また、11世幼いパンチェン・ラマは拉致されて、行方不明のままです。他の国からの追求にも、中国政府からの明確な回答がありません。

法王の後継者についても変化があります。

今回の決断によって、1963年の憲章・92年の憲章草案・70年代の法王ご自身による後継者についての文章などが、無効となるでしょう。さらに、憲章にある、ダライ・ラマ法王不在時の「摂政」についての規定も無効になります。

これは、長い歴史の中で、チベット人にとって初めてのことです。時間が経つにつれて、その影響を実感することになるでしょう。

N: ダライ・ラマ15世、16世をどのように決めていくか、ということになりますね。

1979年に法王が、15世を見つけるための、3つの方法を提案されました。

1つは伝統的な方法。2つ目は選挙によって選ぶ方法。3つ目として「ローマ法王の選び方から、ならうことがあるかもしれない」とおっしゃっています。

そのどれにするかということは、特におっしゃっていません。もしかしたら女性の「ダライ・ラマ」も考えられます。

今回法王は、政治的な権限は委譲しました。しかし、「ダライ・ラマ」という宗教的な立場は残ります。

「ダライ・ラマ」の後継者については、ガンデンポタン政府の問題ではなく、個人の問題に変わりました。これは大きな変化です。

現在、中国政府は、次のダライ・ラマ15世を政治的に利用するために、どのように選ぶか画策しています。パンチェン・ラマも拉致しましたし、同じように画策しているのではないでしょうか。しかし、今回の法王の決断によって、それが難しくなります。

中国政府は「ダライ・ラマ法王は、強力な権力を持っている独裁者だ」と非難してきました。しかし、法王は「ムバラクのようにはなりたくない」「喜んで次の人に権限を委譲したい」と表明しました。このことで、国際社会の味方を得られるでしょう。

また、中国政府は、法王は悪魔だと頭ごなしに非難していますが、今後は、法王の発言や決断について、よく考えなければいけなくなるでしょう。

これからは、亡命チベット政権の指導者は、国民から選ばれた主席大臣になるのですから。

N: 非常に重要な、歴史の変わる瞬間だと思いますが、日本での反応はどうでしたか?

日本のメディアの記者で、個人的に事務所に来て質問した人もいますし、関心は高いと思います。メディアに取り上げられるかは別として、正しく伝わっていると思います。

N: やはり、2008年以降に関心が高まったということでしょうか?

その通りです。それ以前は、それほど関心があるとは感じていませんでした。2008年以降、ニュースでも取り上げられるようになり、チベット問題があるということは、日本でも伝わりました。

会場からの質疑応答

Q:今回の政権委譲について、インド政府の反応はどうでしたか?

インドのメディアの関心は、驚くほど高いものでした。今回の政策によって、インド政府はもっとやりやすくなると思います。

「亡命政府」という表現は、中国政府から非難される材料となっていました。

「Central Tibetan Administration(中央チベット政権)」という名称は、中国政府が非難しにくいものです。チベット語、英語(一部govermentという語を使用していた)、日本語の表現から「政府」を取り去りました。

今後は「インドにある、亡命チベット人の面倒を見る組織」という扱いになります。

Q:例えば、ダライ・ラマ法王がインドから追い出されるということはないでしょうか?

それはありません。今後、ダライ・ラマ法王は国際社会でより動きやすくなります。

政治権限を完全に委譲したため、「法王の活動は、中国の国家分裂をもくろんでいる」と、中国政府が非難する理由がなくなります。

チベット側は、何回も代表団を送って、中国政府の質問に対して回答してきましたが、先方はそれを受け入れませんでした。中国政府には、チベット問題を解決する「政治的な意志」がないようです。

Q:「中道のアプローチ」を支持している中国の知識人の、今回の決断についての反応はありましたか?

今のところ、特にコメントは出ていませんが、恐らく彼らも支持しやすくなると思います。

知識人にとっては、中国政府が今まで「中道のアプローチ」を受け入れなかったことについての非難がしやすくなると思います。

Q:中国政府に「政治的な意志」が足りないと思われる理由はなんですか?

今までも「中道のアプローチ」について話し合おうと、チベット側が努力してきました。しかし、中国側は反応せず、全く進展していません。それどころか、関係は2008年から悪化しています。

中国政府はチベットの仏教文化を最も非難しています。「仏教文化があるからチベット問題が存在する」として、その文化を抹殺するためにチベット語を抹殺しようとしています。そのために、チベットの田舎の学校を閉鎖し、大きな学校を作り、公用語を中国語にしています。そして、チベット語をオプションとする政策を実行しようとしています。もっとも、この政策は、地震やデモがあり、うまく進んでいません。最近のキルティ僧院での暴動も、この政策に関係しています。(参照:キルティ僧院の危機的状況に関するダライ・ラマ法王の呼びかけ

また、遊牧民から先祖伝来の土地を取り上げて、一カ所に定住させています。取り上げた土地には、軍事的な施設や工場を作り、資源を採取しています。アムド地方ではゴールドラッシュがおきているそうです。中国政府は遊牧民を追い出して、チベットの天然資源を奪おうとしています。

以前に、中国政府がチベットの特使を招いたのは、パフォーマンスに過ぎないのです。2008年の胡錦濤国家主席が来日する直前に、特使との会見を発表して、日本のメディアからの追求を避けることに利用しました。このようなやり方をずっと繰り返してきたことからも、中国政府には、チベット問題を解決する「政治的な意志」が足りないということがわかります。

 

最後のあいさつ

本日、みなさんがチベットの問題に時間を割いてくださったことを、ありがたく思います。

日本では個人的に同情されている方は多いのですが、それを表明されることは少ないようです。これは日本の民族性なのかもしれません。日本人とチベット人は、見た目も似ているし、思想も似ているところがたくさんあります。チベットの状況を少しずつ理解していただき、まわりに伝えていただければ、ありがたいと思います。

日本でも震災があり、国全体が揺れましたが、これは万物には変化があるということです。今の状況、今から50年前の状況、今後の50年間の状況を考えてみると、ずっと変わり続けています。状況がずっと変わらないのであれば、日光の猿のように「見ざる・聞かざる・言わざる」でも構わないのですが、状況は変わり続けます。

多くの人に、少しでもチベットについて、理解と関心を示していただければ、ありがたく思います。今後ともよろしくお願いします。

※写真の一部はダライ・ラマ法王公式サイトならびにチベット亡命政府サイトから転載させていただきました。

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