本記事は日本別院としての活動を開始するにあたり、ケンスル・リンポチェ・テンパゲルツェン師にその活動内容を伺ったものです。
この度デプン・ゴマン学堂から四人の新たなスタッフを迎えることで、いわゆる「四人の比丘」があつまった正式なサンガとなりますね。そこでチベットのお寺としての最低条件をクリアすることになるわけですが、日本にこうしたチベット仏教のお寺というものを始めるにあたっての抱負をお聞かせください。
まず、「サンガ」という言葉ですが、これは仏・法・僧の三宝のなかのサンガ(僧)の場合、「世俗のサンガ」であって本当のサンガではありません。本当のサンガは空性を理解した聖者(しょうじゃ)と呼ばれる人々のことを指しています。ただ仏教ではこの「世俗のサンガ」に対して供養したり、信仰することは本当のサンガに対して供養したりするのと同じような功徳があると言われているだけです。ですので、我々凡夫がいくら集まったところで「サンガ」ではありませんので、それはご了解ください。
「サンガ」であるためには、聖者が一人以上かもしくは凡夫の比丘(びく)が四人以上必要となります。比丘とは二百五十三項目からなる具足戒(ぐそくかい)を授かった人のことを指します。
これはチベット仏教に限った話ではありませんが、一般的にお寺というのものは、ブッダの教えを静かにまもりそれを実践するための場所です。ですから、お寺というものは、そのお寺にいる僧侶であっても、近所の方であってもブッダの教えを実践しようと思うときに、どんな人でもお寺に来て祈りを捧げたりすることのできる場所であるべきです。
お寺があるということは、我々僧侶にとっても、一般の方にとっても大変役にたつことなのです。お寺には仏教があり、それを実践しようとする人々の集まる場所ですので、そのお寺を中心としてすべての人々がその教えに従って幸福になることができるのです。
ですので、そういった大きな目的を考えると私たちチベット仏教のお寺であっても、みなさんが幸福になるための何らかの助けとなるのではないかと思います。ですので、私たちが日本の社会のなかで小さなお寺をはじめることで、みなさんが幸せになれるのだとしたらこれは素晴らしいことなのではないかなと思っています。
ケンスル・リンポチェはいまから何十年も前に、日本にチベットのお寺を作るときの管長になるという話があったと聞いています。しかしこの計画は失敗し、結局のところいままでチベットのお寺というのは日本にはできなかったわけですよね。東洋文庫時代に日本にいらっしゃったときにもチベット式のお寺がいいなとかそういったものを作りたいといったお考えはありましたか。
そういった考えはあまりありません。自分でそういったものを作ろうとか思ったこともありません。日本にはお寺が沢山ありますので、無理やりにチベット式の寺院というものを建設する必要もないのですが、ただ、一般的にどんな規模のお寺であってもそういった仏教の教えを実践する場所が、あるというのは大切なことだとは思っていました。お釈迦さまの教えが広がり繁栄するということは仏教徒にとって喜ぶべきことですからね。
今回、チベット式の寺院というものを始めるというのは一体どういうことですか。
まず今回私たちがはじめるチベット式の寺院というものですが、別にチベット式の建築物を作ったりするということではありません。以前から私たちの日本における本拠地としてお借りしている高野山真言宗の龍蔵院で正式なチベットの寺院としての活動をはじめるということです。
では何をはじめるのか、というと一番メインとなるのは「根本の三儀軌」と呼ばれるものです。私たちチベット仏教の僧侶にとってこの「根本の三儀軌」が行われているのかどうか、ということが一番大切です。そしてその儀式を行なうためには具足戒を受けた比丘が最低でも四人以上常時お寺に居なければいけません。
これはチベット仏教の戒律で決められているお寺としての最低条件となるのです。もちろん密教を修行するための小さな隠遁庵などではこうした儀式は行われませんが、仏典のなかでの律で説かれている寺院としての最低条件はまず、「根本の三儀軌が行われていること」ということになると思います。
このたびゴマン学堂から四人のスタッフが来日することによって、この儀式が行なえるようになりました。つまりお寺としての最低条件が整うのです。ですから、これまでのように一時的に日本に滞在してチベット仏教の教えをひろめたりするだけではなく、きちんとした毎日の細かな時間割や生活の規則、年間の法要なども含めて、お寺としての規則をきちんときめて、それに従って生活をすすめていくという形になるわけです。いちばんメインになるのは、「根本の三儀軌」と呼ばれるものです。
「根本の三儀軌」というのは一体どんなことをするのですか。
「根本の三儀軌」というのは、「布薩」(ふさつ/ソジョン)・「夏安居」(げあんご/ヤルネー)・「自恣請」(じしこう鉢和羅(はちわら)とも言う/ガクイェー)の三つを指してます。
「布薩」(ふさつ)というのは、善を養い罪を浄化する儀式です。
布薩には比丘のための布薩と沙弥のための布薩がありますが、そのいずれもがまず犯してしまった罪を懺悔して、その犯してしまった罪によって戒律が損なわれてしまうのを止めて、もう一度その戒律を心のなかに復興させる役割をもっています。もしも布薩をしなければ、犯してしまった罪がそのまま留まってしまいます。ですので出家した僧侶にとってこの布薩は極めて重要な儀式といえるでしょう。布薩は、僧侶それぞれ法衣・袈裟をもって本堂にあつまり、五体投地をして、懺悔文や『別解脱経』などを唱えるなどの儀式を行ないます。これをするのには最低四人の比丘が必要となります。
もちろん以前私が東京で暮らしていたときのように一人で住んでいるときは四人以上の比丘がいませんので、布薩はできませんが、自分が日常的に唱えているお経のなかで、懺悔文などを読んでいましたが、一人で懺悔するのと布薩をして懺悔するのとでは、その効果も大きく違っています。
日本でも布薩の名残りとして仏名会などがあるのを尾道の浄土寺に伺ったときに知りましたが、我々が行なう布薩は、基本的にはその寺院の比丘のみしか参列してはいけないことになっています。たとえばデプンでも布薩がありますが、比丘の布薩をやっている時には、沙弥は入堂してはいけない規則になっています。日本で布薩をするときに、一般の方がお寺に来ていいようにするかどうか、ということはもうすこし戒律の経典や註釈書を調べた上で検討して決めたいと思います。
次に「夏安居」(げあんご/ヤルネー)ですが、これはお釈迦さまの時代のインドでは夏の雨期の間に草むらに小さな虫などが沢山増えるので、それらを殺さないように三ヶ月間は僧院から外出を禁止されたことに基づいています。最近は三ヶ月間ではなく九十日間夏安居を行なう慣習になっています。もしもどうしても外出しなければ、ならないときは七日以内で外出の許可の儀式を行なわなければなりません。外出許可は最初に夏安居に入るための宣言を加持して、その期間だけ保存しておくという意味をもっています。
「自恣請」(じし)というのは、この夏安居が解禁になる日からはじまる僧院の休日のようなものです。夏安居の期間中の外出禁止が解禁になるわけです。そこで禁止項目が解け、自分の恣いままに外出できるということから「自恣」と呼ばれています。むかしのチベットでは、この自恣の時にデプン僧院の僧侶全員が、ノルブリンカ離宮でダライ・ラマ法王に謁見に行く習慣になっていました。
「根本の三儀軌」というのは以上の三つですが、夏安居・自恣請というのは年に一回しかありませんが、布薩は基本的に月に二回ほどあります。十四日、十五日のいずれかの布薩と新月などの日に行われることとなっています。
また自恣の期間中は法衣・袈裟はお寺のなかの一ヶ所にまとめて置いておきます。これは何故かといいますとこの期間中は、法衣・袈裟を自分の居る場所から遠く離れていてもいいと言われているからです。通常法衣・袈裟は自分の寝泊まりする場所に必ず置いておかなければいけません。もしも一日以上法衣・袈裟をどこかに忘れて遠い場所にいってしまったのなら翌日から法衣・袈裟の力というのはなくなってしまうわけです。もちろん法衣・袈裟の力がなくなったら再度加持することができますが、これは一人ではできないことになっています。最低でも二人以上の僧侶がいなければ、法衣・袈裟を加持することはできません。私たちが今後日本でお寺としての活動を開始したのならば、こういったこともできるようになるわけです。
このようなわけで四人以上の比丘がいて「根本の三儀軌」が行われることによって我々僧侶の戒体も清浄なものとすることができるようになるわけです。
「根本の三儀軌」が開始されることにより、お坊さんたちの戒律が清浄なものになるということはわかったのですが、それは我々在家の信者たちにとっては一体どんな意味があるのでしょうか。やっぱりご利益に大きく違いがでてきますかね。
信者の方々にとっても、「根本の三儀軌」を行なっている寺院でお祈りをしたり、仏教の勉強をしたりすることでその加持の力も大きく異なると思います。僧侶が戒律を清浄に守っている場所でお祈りをするのと僧侶が破戒しぐちゃぐちゃになっている場所でお祈りをするのとでは、その効果の違いも歴然としているのではないでしょうか。
ただし注意して欲しいのは、そういう場所だからとか、夏安居の期間中だから御利益も大きい筈だといった不純な動機でお祈りをしたりするのは、あまりよくありませんよ。御利益だけをもとめて仏教の実践をすべきではないからです。一番大切なのは心構えであるというのを忘れてはいけません。
デプン・ゴマン学堂では問答をしたり、暗記をしたり学校みたいな雰囲気がありますが、そういった問答の時間とか暗記の時間というのもするのでしょうか。
問答をするためには大人数がいりますし、ゴマン学堂のようなお寺はチベットのお寺のなかでもちょっと特殊なお寺です。ゴマン学堂では、勉強するのが一番大切ですが、田舎などにある小さな寺院ではそうではありません。そういった小さなお寺では、仏教の実践を行なうのが一番大切で、我々がはじめるのはこのような小さなチベットのお寺ですので、問答や暗記などは難しいでしょうね。人数が増えたりすれば、そういったこともできるかもしれません。
じゃあ具体的に修行の時間のようなものはないんですか?
日本の禅宗の僧堂のようにみんなで一緒になって座禅をくんだり、瞑想をするというような伝統はチベットにはありません。朝晩の読経はもちろん一緒にしますが、瞑想をしたり経典の勉強をしたりするのは各自が自発的にしなければいけないことです。
ただ朝晩の読経をしているときでも、その読経の時間中は経典の内容をよく考えて観想しなければなりません。その時は、いってみれば一緒に修行しているようなものですね。よく言われていることですが、「善き文章を唱えなさい、善き意味を考えなさい」よき文章を唱えながらその文章の示しているよき意味を頭のなかに浮かべることによって、資糧を積むことになるわけです。
それでは参拝に来て瞑想をしたりその指導などを受けることもできますでしょうか。
基本的にチベット仏教の僧院では所謂日本の方が期待されているようなヨーガ教室のような瞑想の指導というものはありませんし、する習慣もありませんのでそれは無理だと思います。
それには理由があります。というのも、そもそも瞑想というのは個人個人が心のなかでするものであって、「はい次はこれを瞑想してください」「次はこれを瞑想してください」といってできるものではないからです。人の心はそれぞれ違いますし、瞑想の経験もそれぞれ違うわけですので、みんなを集めて観光案内のように次から次へと瞑想の内容を教えることなどできないのです。
しかし瞑想をしたいと思う人がお寺に来られて各自瞑想をなさることは別に構いません。みなさんが来られて瞑想したりお祈りをしたり自由にできる時間、というのも設けたいと思います。もし瞑想をするうえでのいろいろな質問事項があれば、我々に質問していただければお教えいたします。しかし、観光案内のように瞑想指導してくれというのはナンセンスだと思います。
弟子になりたいとか、出家したいという日本人が来たらどうしますか。
まず、「弟子」という場合に、仏法上の弟子にならいつでもなれます。法話会などに来ていただければいいと思います。
それから居士・大姉の戒や大乗布薩などで菩薩戒を授けるといった種類の受戒はできます。そのときに戒名を授けることもできます。どなたでもいらしてくださって結構です。ただ、こちらも準備がありますし、早朝夜明け前に受戒の儀式はしなければならないことになっていますので、事前に事務局の方にコンタクトをとって頂きたいと思います。
チベット式の僧侶となりたい、そして弟子に欲しいという方が来られても、ちょっと困ります。安易な気持ちでは、僧侶としてはやっていけませんし、日本にも伝統的な仏教があるのにわざわざチベット式の僧侶になる必要もあまりないとも思います。もしも本当にチベットの僧侶になるのならば、チベット語の語学力や仏教への予備知識なども必要になります。それにチベットの状況はいま亡命している状況ですから、そういったさまざまな問題があるわけです。ただしご相談程度ならば受け付けたいと思います。
私としましては、大乗布薩などに参列されることをお薦めいたします。早朝お寺にきて菩薩戒を授かって、一日とか三日とか自分が決めた期間中菩薩戒を守る儀式です。これは誰でもまもりやすいですし、あらかじめ期間を区切って戒律を授かりますので、実践もしやすいと思います。
それ以外にお寺の行事としてはどんな行事が新たにはじまるのでしょうか。
サカダワ法要とか転法輪会などといった一般的なチベットのお祭りはほんの小さな集まりですが、はじめたいと思います。大体の法要などの読経次第やスケジュールはデプン・ゴマン学堂の伝統通りにしようと思っています。それからもともと龍蔵院での行事などがありますので、それらも含めていずれみなさまにお知らせいたします。
チベット式の仏殿というか、本堂がなくても大丈夫なのですか。
それはまったく問題ありません。龍蔵院には歓喜天とお不動さんがいらっしゃいます。歓喜天はもともと観音さまの化身です。それに我々がもってきたタンカや仏像などもすこしですがあります。チベットでは、身口意の拠り所といって、仏像・経典・仏塔を本堂に置かなければいけないことになっていますが、それらもきちんと揃っています。
お寺にとって一番大切なものとは、仏像や宝物なのではなく、そこで仏教の教えを実践する人々がいる、ということです。ですからチベット式の建築物に拘る必要はまったくないのです。
いつころからこのチベットのお寺ははじまるのですか?
現在お寺の規則などをみんなで話し合っているところですが、7月28日(水)に開創大法要を執り行いたいと考えております。記念すべき式典ですので、是非多くの方にご参列くださいますよう御願い申し上げます。